ニュースリリース|トピックス| 2025年01月02日(木)
2011年12月19日は、金正日が亡くなったというニュースが発表された日です。 その日から、後継者の金正日は北朝鮮の最高指導者になりました。
当時、多くの人は、信頼できる幹部もあまりおらず、経験もあまりない金正恩は、とりあえず慎重に行動するだろうと思っていました。私もそう思っていました。しかし、驚くべきことに、金正恩が非常に断固としてさまざまな分野で変化を起こしたことを見ることができました。
2012年は北朝鮮の経済改革の最初の年だったと言えます。シグナルとなった6.28政策の時から、北朝鮮で圃田担当制が実施され、農民が努力する理由が生まれました。同時に、金正恩は外国からの投資を誘致するために20以上の特区を設置し、工業分野でも独立した体系を作るために多くの努力をしました。その結果、2010年代半ばに北朝鮮は5~6%の経済成長を達成したと推定されます。
金正恩は当時、これからは人民が苦労することなくよく暮らせるようになると主張しました。しかし、これはもう昔の話になってしまいました。2017、2018年、北朝鮮はそれまで非常に成功していた改革への関心を失いました。経済だけでなく、思想分野でも監視が強化され、鎖国政治、つまり国家孤立政策もますます深刻化しています。
金正恩の立場から見れば、このような政策をとったのには根拠があるとも言えます。2010年代の金正恩はどのような人物だったのでしょうか。海外留学を終えて北朝鮮に戻り、恋に落ち、歌手出身の美女と結婚しました。彼はおそらく本気で北朝鮮住民の生活を向上させることを考えていて、この問題を比較的簡単かつ迅速に解決できると判断したのでしょう。
正直なところ、国政だけでなく、企業所でも学校でも同様の様相を見ることができます。新しく任命された指導者は、昔の指導方法を変えようとすると同時に、自分の力を信じて、すべての問題を一朝一夕に解決できると思っています。
しかし、ほとんどの場合、このような熱意ある試みは失敗に終わります。失敗に終わるしかない理由は、新しく選ばれた指導者の知識不足や誤判断よりも、その団体が活動してきた環境と状況によるものです。
それだけでなく、新しい指導者はしばらくして、新しい指導方式が彼が嫌いな昔の指導方式ほど効果があまりないことを学ぶことになります。
北朝鮮という国で、金正恩の改革熱望が冷めてしまった理由は何でしょうか。 理由は2つあります。1つ目は、北朝鮮の指導部が核開発を放棄するどころか、中止することすら考えていなかったということです。
彼らにとって、北朝鮮を核保有国にすることほど重要な課題はありませんでした。しかし2016から2017年になり、北朝鮮の軍事的発展、とくに水素弾の開発や大陸間長距離ミサイルの開発は、非常に厳しい対北朝鮮制裁をもたらしました。
そのため、北朝鮮は輸出を中心とした中国やベトナムの経験を再現することが難しくなりました。
次に、個人的に西洋の大衆文化を楽しむ金正恩であっても、北朝鮮という国家が鎖国政策を取って国境を閉じたままにしないと生き残ることができないことを知ったからです。
これは彼の父、とくに彼の祖父が最もよく知っていて守っていた方法です。体制維持や内部取り締まりのために一番重要な条件は、北朝鮮の民衆が外の世界について絶対に知るべきではないということです。
だから、金正恩の北朝鮮はますます10年前に若い金正恩が嫌った金日成の北朝鮮、金正日の北朝鮮に似てきています。金正恩は政権初期、体制を変えようと試みましたが、北朝鮮という体制は変えようとすると維持するのが非常に難しい、あるいは不可能な構造なのです。
(RFA、2024年12月19日、アンドレイ・ランコフ国民大学教授)