鄭昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く| 2016年06月12日(日)
2013年5月29日に北朝鮮の最高人民会議常任委員会は経済開発区法を制定、公表した。同法は7章62条、附則2条で構成され、経済開発区の創設、開発、管理、紛争処理などを規定している。経済開発区には外国の法人、個人と経済組織、海外同胞が投資でき、企業や支社、事務所などを設立し、経済活動を自由にできるように規定されている。北朝鮮は経済開発区の類型として工業開発区や農業開発区、観光開発区、輸出加工区、先端技術開発区のような経済・科学技術分野の開発区を提示している。特に経済開発区では、下部構造建設部門と先端科学技術部門、国際市場で競争力が高い商品を生産する部門の投資を特別に奨励している。
経済開発区法の制定の意味
今回制定された法律は、以下のような意義を持っている。まず、中央政府レベルではない地方政府のレベルでも経済開発区(特殊経済地帯=経済特区)を設置できる土台ができた。これについて北朝鮮は、「経済開発区を管理所属によって地方旧の経済開発区と中央レベルの経済開発区に区分し、管理するようにした」と明らかにした。北朝鮮は2012年末、13の直轄市・道と220の市・郡に対し、党責任秘書と人民委員長が主導権を持って地域別の特性に合う自主「開発区」開発が可能にするように決定(「統一ニュース」12年12月28日付)したが、今回にこれを法制化したものだ。現在、北朝鮮が開発・推進している「中央級経済開発区」としては、韓国側の協力事業である開城工業団地、金剛山観光特区と羅先経済特区、黄金坪、威化島経済特区、元山観光特区などがあり、早晩、新義州経済特区も発表されるとの観測が出ている。
「地方級経済開発区」としては、オンソン島特区、黄海南道カンリョン郡経済特区などが推進されている。オンソン島特区は図們江下流、中国側河東上島と北朝鮮側オンソン島を連携、観光特区として総合開発するというもので、中国吉林省は2013年3月、河東上・オンソン島特区を推進、北朝鮮の羅先経済特区との産業的協力を推進することで、図們江地域開発の橋頭堡とすると明らかにしたことがある。
カンリョン郡経済特区は今年初め、投資誘致のため作成されたものと推定される「黄海南道カンリョン郡経済特区計画要綱」(計41ページ)が公開されて初めて知られるようになった。この計画要綱は、北朝鮮の外資誘致窓口である朝鮮合営投資委員会の依頼を受けて、チュンヘトゥ国際投資管理有限公司が中国企業に説明用として作られたものと思われ、中国語と韓国語で作成されている。
この要綱には「30億人民元規模の世界初となる朝鮮に対する大型投資基金を創立したことに続き、チュンヘトゥ(北京)国際投資管理有限公司は光栄にもカンリョン郡経済特区建設に参加し、朝鮮の偉大な経済発展事業に自らの力を捧げることができるようになった」と書かれている。計画要綱によれば、カンリョン郡経済特区は総500億ドルを投資し、国際金融と先端産業の拠点として作られるという目標の下、推進される予定だ。ただ、この計画要綱は「バラ色の青写真」で、実際に投資誘致に成功し実現できるかは未知数だ。2007年の南北首脳会談の際、金正日は「(鄭夢憲会長に)カンリョン郡の土地が今後改善されれば、工業団地にしてみてはと言ったことがある」と明らかにされており、同特区は首脳会談の際に合意した海州特区開発と連携して、韓国資本の投資を念頭に置いたものかもしれない。
注目すべきは、2013年3月末に開かれた労働党中央委員会会議で金正恩が「各道に経済開発区を作り、特色を持って発展させるべき」と明らかにしただけに、カンリョン郡のケースのように、各道、市、郡のレベルの経済開発区計画が続々出てくるという点だ。すなわち、このような構想が現実のものとなる場合、長期的に北朝鮮全域に経済特区が立ち上がってくることを意味する。
また、今回経済開発区法が制定されたことで、外国人投資関連の法的、制度的土台が事実上整ったと見ることができる。北朝鮮は2011年11~12月、合営法(1984年に初めて採択)を改正し、外国人投資法、合作法、外国人企業法、土地賃貸法、外国人投資銀行法、外国人投資企業破産法、外国人投資企業登録法、外国人投資企業制定管理法、外国人投資企業会計法、外国人投資企業労働法などを状況に合わせて相次いで改正した。北朝鮮は新義州特区が挫折した後、2000年代半ばに外国人投資関連法規を改正したことがあるが、11年に中国側の要求と世界的流れに合わせ、再び改正したことになる。羅先経済貿易地帯法、黄金坪、威化島経済地帯法など個別の経済特区関連法規も整備され、今後新設される経済特区はこの法規に基づいて制定されるものと予想される。
金正日が2009年に外資誘致を督励
新義州特区が行政長官として内定していた楊斌が拘束されて中断した後、北朝鮮が再び経済特区に集中し始めたのは、金正恩が後継者として活動を開始した2009年からだ。09年9月初旬、当時の金正日は「米国など西欧資本の誘致に注力すべきだ」と、内閣・貿易相と対外事業機関の主要幹部たちに対外貿易の拡大と海外資本誘致を促した。このような北朝鮮の動きは、09年11月末、平壌を訪問したジャック・プリチャード韓米経済研究所(KEI)所長と米アジア財団韓米政策研究センターのスコット・スナイダー所長に行った、北朝鮮外務省の李根米州局長の発言から確認できる。プリチャード所長は平壌訪問の後、「北朝鮮の貿易省官僚らが米国の対北朝鮮投資に大きな関心を見せ、『外国人の対北朝鮮投資を促進するため、新たな法令を制定した』と述べた。北朝鮮が外国人投資を保護することはもちろん、税金と賃金などで各種優遇策を与えるという話も聞いた」と明らかにしている。
この時から、北朝鮮は経済特区の拡大だけでなく、経済特区以外の地域に対する投資誘致も積極的に受け入れる計画を立て始めたように思える。この時点で、北朝鮮が今後、経済路線や対韓国路線、対外路線と関連して1990年代初期から金日成が行っていた路線に戻り、これを金正恩は後継者時代の基本方針に確定した時と一致する。
北朝鮮は1990年代初頭、羅津先峰地帯を「特殊経済地帯」として開放し、「制限的経済開放政策」を実施したことがある。制限的という意味は、国内的には社会主義経済を堅持しながらも、対外的には世界の市場経済体制と共存するということを意味する。中国のように計画経済と市場経済を一つの体制の中で並行させるのではなく、計画経済の枠を守りながら一部地域を計画経済から分離し、その地域に外国からの直接投資を誘致して企業運営体制を自由に選択できるようにすることで、足りない資本と技術を習得するというものだった。
このような政策に従って、北朝鮮は1992年に新貿易体系として貿易の分権化を行い、94年からは三大第一主義(農業、軽工業、貿易第一主義)を第3次7カ年計画以降、3年間の緩衝期(94~96年)の新たな経済政策として打ち出した。また、政府の貿易関連組織を統廃合し、対外経済委員会を新設した。このような対外経済協力政策に対し、当時の北朝鮮は民族経済の主体的発展過程と国際協力の客観的条件が結合したと説明していた。
1990年代初頭「制限的経済開放政策」に回帰
これについて1995年10月、日本を訪問した金日成総合大学経済学部のキム・スヨン教授は、次のように説明したことがある。
「共和国(北朝鮮)は最初から、国内市場重視の経済発展モデルを選んだ。これは内部蓄積を源泉とし、国内市場の需要を自主生産で充足させ、自分たちの資源や資本、技術、人材を活用して国内経済を建設することで、共和国が直面する主観的(朝鮮戦争後の廃墟からの復興)、客観的(資本主義国家の対北朝鮮封鎖)条件をきちんと反映したものだ。これは自立的民族経済建設方針として確立され、その過程はまた対外経済交流と密接な関係を持って、社会主義、資本主義国家との交流の拡大を図ってきた。
その結果、1980年代以降、連携依存がさらに深まり、対外経済交流の新たな段階の発展が要求され、貿易一辺倒から合営、合作(1984年の合営法)へ発展した。90年代に冷戦構造が緩和したことで、理念を超越した経済交流が世界的な流れとなり、また共和国の対外経済交流の70%を占めていた社会主義圏の崩壊と共和国の自立的経済建設路線の政策変化を要求されるようになった。すなわち、国内の経済発展の自らの要求と、協力、交流という世界経済の流れという主観的客観的条件から、91年12月に羅津先峰自由経済貿易地帯の創設がなされ、93年12月の党中央委員会第6期第1次全体会議で第3次7カ年計画の評価を行ったうえで、新たな技術の導入、外貨収支均衡、地域協力強化を通した東北アジア平和安全保障、貿易第一主義の貫徹を目標とした新たな経済開放政策が出るようになった」
しかし1990年代初頭、「制限的経済開放政策」も基本的に自立的民族経済建設路線が占めるようになり、北朝鮮は外資導入に対しては慎重な姿勢を固守してきた。北朝鮮のこれまでの経済建設の歴史を振り返ってみると、北朝鮮が外資に対し慎重な姿勢を取った理由がわかってくる。
1950年代には、ソ連など社会主義圏の援助が北朝鮮の経済復旧を支援したが、その後社会主義圏内の理念対立が出始めて対北援助が減少し、北朝鮮も自立的民族経済路線を打ち出した。北朝鮮は60年代に自立更生を重点を置いた経済建設を実施したが、労働力投入の限界と技術開発の未熟さなどで高い経済成長を実現できないと、70年代には資本主義圏の借款と技術を積極的に導入し始めた。しかし、国内需要優先の計画経済システムは外資に対する償還能力(外貨準備)をきちんと備え持つことができず、さらには石油危機によって外貨不足が深刻になり、実質的な債務償還不能(デフォルト)状態に至った。
北朝鮮は1980年代は合営法を制定し、外国人の直接投資を受け入れる法的装置を整えた。しかし、西欧資本主義圏との合営事業はうまく進まず、経済開放の副作用に対する政治的憂慮で80年代半ば以降にはソ連との経済関係を重視する方向に変わった。合営法は、実際には在日本朝鮮人総連合会系列の同胞商工人の投資誘致に適用された。80年代末から90年代初頭の社会主義圏の崩壊、特にソ連の崩壊で北朝鮮経済は深刻な危機に直面した。91年12月に経済特区を設置し、資本主義圏から外交人直接投資を誘致しようと推進した羅津・先峰自由経済貿易地帯(現在の羅先経済貿易地帯)政策は、いわば「北朝鮮の核危機」が訪れ、米朝間の対立で本格的な進展が見られなかった。さらには、97年から始まったアジア金融危機は、外資に対する北朝鮮の憂慮をさらに高めた。北朝鮮はこのような歴史の経験から、外資に対して慎重な立場を持つようになったと考えられる。
南北経済協力が進まないと中国との協力を強化
北朝鮮の外資に対する認識が変化したのは、1998年「強盛大国建設」を国家の新たな目標として提示し始めてからだ。北朝鮮は「強盛大国建設」を標榜し、自力更生による経済再建を強調したが、外資誘致の必要性を痛感していた。また90年代末、北朝鮮が経済危機を乗り越える過程で、国際社会の協力、特に韓国との経済協力は東北アジアで冷戦対立を超えて、新たな平和を創出できる可能性を確認した。結局、北朝鮮は韓国側が提案した開城工業団地と金剛山特区を受け入れ、南北経済協力および協力事業に相当な期待を示した。
しかし、李明博政権になって南北対話が途絶え、南北経済協力が予想通りに進まないと、北朝鮮は中国との協力を強化する方向に回った。2009年、北朝鮮が積極的な投資誘致政策に転換し、翌年、金正日が二回にわたって中国を訪問、黄金坪と威化島、羅先特区開発に積極的になった理由だ。金正日は羅先特区開発のため、09年末に同地区を直接現地指導した。2010年1月、羅先市を特別市に昇格させる一方、羅先経済貿易地帯法を改正し、対外投資誘致のための準備を終えた。09年に貨幣改革をめぐる混乱の中で外資誘致と経済特区拡大に対する北朝鮮内部の否定的声は静まった。
2010年から北朝鮮は対外投資誘致機関に対する整理作業も進めた。その結果、北朝鮮の外資誘致窓口として朝鮮合営投資委員会と朝鮮大豊国際グループが組織された。前者は10年7月8日、北朝鮮の内閣全員会議で批准、結成され、外資誘致と合営、合作など外国と関連したすべての事業を統一的に指導することを指名とする北朝鮮の国家的中央指導機関だ。後者はこれより先に国防委員会傘下の機関として結成された。
日本のある消息筋は「合営投資委員会と大豊グループはともに北朝鮮の外資誘致のための公式窓口として、前者は計画経済部門を、後者は非計画経済部門の外資誘致を担当している」と打ち明ける。全世界を対象に通常の外資誘致は前者が、大規模インフラ建設など目的性のある事業のための外資誘致は後者が行うことで、役割分担がなされている。ただ、投資実績が振るわず、合営投資委員会との活動が重複するなど、大豊グループは合営投資委員会に吸収されたようだ。実際に、羅先特区と黄金坪開発などのための中国側との了解覚書(MOU)締結など、大部分の大規模外資誘致事業は合営投資委員会を通じて行われている。彼らが2012年に作成した「朝鮮民主主義人民共和国投資案内」によれば、11年末まで外国人企業306社が北朝鮮に投資し、投資総額は14億3700万ドルに達すると発表している。
北朝鮮は海外誘致資金を内閣が運用する国家予算に反映させておらず、社会基盤施設拡充に投資する予定だ。北朝鮮関係者はこれを第一経済(内閣経済)、第二経済(軍需)と分離し、「第三経済」と呼んでいるという。
北朝鮮が優先的に投資する対象は、2011年1月に発表した「国家経済開発10カ年戦略計画」にはっきりと示されている。この計画に従って、北朝鮮は下部構造(インフラ)建設と農業、電力、石炭、燃油、金属など基礎工業や地域開発の核心となる国家経済開発の戦略的目標を確定した。これについて、韓国・企業銀行経済研究所のチョ・ボンヒョン研究委員は「10カ年戦略計画は北当局が09年下半期から立案され始めた。具体的な事業分野は12分野で、総投資規模は1000億ドル」と言う。具体的には、①農業開発、②五大物流産業団地(羅先、新義州、元山、咸興、清津)、③石油エネルギー開発、④2000万トン原油加工、⑤電力3000万キロワット生産、⑥地下資源開発、⑦高速道路3000キロメートル建設、⑧鉄道現代化2600キロメートル、⑨空港、港湾建設、⑩都市開発・建設、⑪国家開発銀行設立、⑫製鉄2000万トン生産、だ。10カ年戦略計画の大まかな内容は、大豊グループが作成した「朝鮮民主主義人民共和国経済開発重点対象概要」で見ることができる。このうち、平壌国際空港の建設など、新事業はすでに進められている。
北朝鮮はこの戦略計画を発表し、これを推進するための政府機関「国家経済開発総局」を設立することにしたが、いまだ組織化されていないようだ。中国の北朝鮮消息筋は、国家経済開発総局が早晩公開され、総局長には合営投資委員会のメンバーが内定しているという話を流している。国家経済開発総局は「国際経済開発戦略対象を実行するために生じる問題を総括する政府的機関」だ。
金正恩時代に経済特区開発は後戻りできない流れ
2009年から今回の経済開発区法の制定発表まで、北朝鮮内部でなされた議論と制定された法規を見ると、北朝鮮の構想は明らかだ。
まず、既存の羅先と黄金坪、威化島特区、開城工業団地と金剛山観光特区以外に、黄海側の新義州と南浦、海州経済特区、日本海側の白頭山、七宝山、元山観光特区などを追加し、「中央級経済開発区」(経済特区)を大幅に増やした。すでに新義州特区は香港の大中華グループと具体的な論議が進められており、南浦特区には日本の一部企業が進出を打診していると言う。白頭山、七宝山、元山観光特区はすでに中国人を中心に国際観光が活発に行われており、交通やホテルなど基盤施設も続々と着工されている。特に北朝鮮は、政治局会議の決定に従って最近「馬息嶺速度」を打ち出し、元山を世界的な休養地として開発するための事業に着手した。
また、昨年、平壌の再建設事業に集中していた北朝鮮が、今年に入り地方経済活性化を本格的に行い始めたが、各地域別に経済開発区の設置と対外貿易の権限を与え、地方予算確保に積極的になっているという。すでに北朝鮮は各道別、市、郡別に中国の東北三省およびフンチュン、図們など主要投資と協力事業を議論してきた。
一言で言えば、北朝鮮に「経済特区時代」を迎えようとしている。経済を画期的に発展させるための金正恩時代における北朝鮮の切り札ということだ。もちろん、国際社会の対北経済制裁や南北経済協力の中断などで成果が不透明であり、各道や市、郡の投資誘致競争による副作用なども予想される。北朝鮮は内部の支援同院を通じて自主的に基盤施設を建設し、六者協議や南北対話が再開され、対外環境が友好的に転換される時に備えているものと思われる。羅先特区開発に約20年を算定しているように、北朝鮮は経済特区開発を短期ではなく、長期的に考えているのだ。