昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く

6 「包括的世界戦略」による南北対話を提案

鄭昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く| 2016年06月11日(土)

Facebook

 6・15言から13年目を迎え、北朝鮮が開城工業団地の正常化と金剛山観光再開などのための南北当局者会談を提案、6年ぶりに南北閣僚級会談が開かれる(執筆当時)。2013年6月6日、北朝鮮側の当局間対話の提案→韓国側からの南北閣僚級会談の提案→北朝鮮側の実務者接触提案→南北当局者会談の開催合意と続く3日間の速戦即決は先月末、柳吉在統一相が「われわれを田舎者とでも思っているのか」と北側の態度の変化を促した時から比べると想像もできなかった変化だ。

北朝鮮が対話を提案した背景は

 しかし、より厳密に見ると、北朝鮮が当局対話を提案してくるだろうと韓国政府が予想していたのは確実だ。柳統一相は、北朝鮮側が当局間対話を提案する前日である2013年6月5日、ソウル市内で開かれた「2013韓半島信頼プロセス実現方案の模索」と題された討論会で、「初めての首脳会談の成果である6・15共同宣言をはじめとし、これまで南北間で合意されてきた事項を尊重する意思がある。今の厳重な状況が過ぎ去れば、その時はより柔軟な努力で信頼を積み重ねていくだろう。北韓の回答を期待する」と述べていた。就任あいさつでも触れた「6・15共同宣言の尊重」に再び触れたことで、北側が当局対話に出てくることができる名分を提供したことになる。特にこの日、柳統一相は記者たちに向けて「現在南北間で起きていることをもって、過度に心配する必要はないと思う」と、早晩忙しくなるであろうことを暗示していた。朴槿恵大統領も南側の実務接触の主席代表を室長級に格上げし、南北対話に強い意志を見せた。

 北朝鮮の当局会談提案について、韓国メディアはその背景について、「韓米中参加国協調を土台にした国際社会の対北朝鮮制裁で窮地に追いやられた北朝鮮が、出口戦略として南北対話というカードを取り出した」「国際社会からの制裁を南北対話ムードで希釈させようというもの」「対北制裁を緩和させ、南北関係や6者協議などで主導権を握ろうという意図」「北朝鮮に対する米国の強硬な姿勢に中国が同意する可能性を事前に妨げようとするもの「南北関係の改善なくして経済難の克服は難しいため」という多様な分析を出した。

 北朝鮮が態度を変えた背景についても、「政府の一貫した、また断固たる北朝鮮政策の結果」「朴槿恵式朝鮮半島信頼プロセスの勝利」という評価が主流だ。朴大統領の北朝鮮政策に悲観的な態度を示していたハンギョレ新聞でさえ、「北朝鮮が6日に当局間対話を突然提案したことは、事実上、朴大統領の継続私的な要求事項を幅広く受けれたものと考えられる。朴槿恵政権の原則ある対北朝鮮政策に北朝鮮が事実上肯定したもの」と評価した。

 このような評価は、はたして正しいものか。一面、そのような評価ができるところもある。北朝鮮は朴槿恵政権が始まって以来、継続して非公開接触による「包括的協議」をしようと提案してきた。内心、朴政権の対北朝鮮政策の基調を確認したかったのだろう。最近、北朝鮮でよく使われる「対話へのやる気」を調べたかったはずだ。統一省は水面下での接触に応じる意志はあったようだが、すべてを「公式会談」で論議すべきという大統領府の意志は固かった。結局、北朝鮮は当局間の実務者接触を提案してきたため、韓国の要求を形式的に受け入れ、開城工業団地や金剛山観光、民間交流など主要懸案を包括的に論議し、内容的に自らの勧化を貫徹させた。この点で、韓国の「原則」が通じたと見ることができる。

韓米日中の最後にようやく対話へ

 しかし、韓米日参加国中、最も遅く対話の糸口をつかんだということは、深く考えるべき問題だ。北朝鮮は2013年3月末、朝鮮労働党の代表者会議で「経済建設と核武力建設の並進路線」を採決した後、「全方位対話による攻勢」に打って出た。最も早く米国との接触が進められた。北朝鮮は4月に入り、米国と接触し、5月には李英鎬外務省副大臣兼6者協議首席代表がロバート・キング米国務省北朝鮮人権特使とベルリンで会ったとされている。米国務省報道官はこの事実を否定したが、5月中旬、キング特使が公式通報までしていた韓国との日程を突然キャンセルしたことは、突然に日程が決まった米朝接触のためとの分析が説得力を持つ。米朝間に原則的な合意がなされた人道的レベルの栄養支援問題がテーブルに上がった可能性がある。双方は12年3月に北京で栄養補助食品24万トンの伝達時期と方法、分配モニタリングのやり方などで合意したが、その後に北朝鮮がロケットを発射し、この計画は消えたことがある。6月初旬に世界食糧計画(WFP)が翌月から1年間、北朝鮮住民240万人に食糧を支援する計画を承認したことも注目される。

 米国に続き、北朝鮮は日本との対話のルートを開いた。飯島勲内閣参与が安倍首相の特使として北朝鮮を訪問、金永南最高人民会議常任委員長と会った。会談を終えて日本に戻った飯島参与は、「北朝鮮と日朝国交正常化交渉の再開などについて事務的な協議をすべて終えた」と明らかにしている。残るは安倍首相と菅義偉官房長官の判断ということだ。特に飯島氏は、外務省ルートで日朝交渉が進められる可能性が取り上げられていることに対し、「(外務省で)なぜ交渉する必要があるのか。今後、お互いがどのような考えで臨むかだけだ」と述べ、日本人拉致問題などについて日朝双方の政治的決断が必要だという見解を示した。飯島参与のこのような発言は、平壌で北側要人との会談した際、日朝双方の主張と立場、提案などについて十分に意見交換がなされたことを示唆している。北朝鮮は安倍首相の親書がなかったということで失望はしたが、日朝交渉再開への意志があることは明らかだ。

 日朝接触に続き、北朝鮮は崔竜海総政治局長を特使として中国に送り、「6者協議を含むあらゆる形での対話」を望むという立場を伝えた。習近平主席と会った際、崔局長は「朝鮮は関係各国と共同して努力し、6者協議などあらゆる形の対話と交渉によって問題を適切に解決することを望んでいる。朝鮮半島の平和と安定を守るために、朝鮮側は積極的に行動する」と強調した。彼は北朝鮮が経済発展や民生改善を心から望んでおり、このために平和な外部環境をつくることが必要だと指摘した。北朝鮮は「対話局面への転換を前提に、平和反映に対する確固たる立場を中国に伝えた」ようだ。

 そして北朝鮮は6・15共同宣言実践北側委員会名義で崔竜海特使が中国を訪問した2013年5月22日、共同宣言13周年民族協同行事を開催することを6・15共同宣言実践南側委員会に提案した。これに対し韓国政府が開城工業団地の実務会談を協調すると、北朝鮮は当局間対話というカードを取り出してきた。

新たに概念化された金正恩時代の「包括的世界戦略」

 このような北朝鮮行動は、「包括的な世界戦略」に従って進められていることであり、ある程度予想できたことだ。「包括的世界戦略」(対外戦略)という用語は、2009年12月20日に訪朝中だった米国のビル・リチャードソン州知事に、北朝鮮外務省の金桂寛第1副部長が言及したもので、米朝、南北、日朝対話を並行して全方位的に推進していくというものだ。2010年1月13日付「中央日報」に掲載されたコラムで、ソウル大学のチャン・ダルチュン教授は北朝鮮の「包括的世界戦略」について「米国に対する過度の依存を減らし、その代わりに韓国と日本を攻略する1990年代初頭の金日成の南方政策をモデルにするようなもの。このような金日成の遺訓外交の復活は、金正恩後継体制と無関係だとは思えない」と分析している。

 実際に、北朝鮮で金正恩の後継体制が構築され、また登場する過程は、新たな指導者に合う新たな政策の方向性を定めることと一緒に進められた。特に対外戦略については、北朝鮮は2009年5月に2回目の核実験を行ってから、東北アジアでG2として浮上した中国との関係をどう設定するか、6者協議と平和協定をどうするか、南北関係などの問題について幅広い議論が進められたとされている。

 結論は、1990年代初頭に金日成主席の最後の対外路線を基本政策とし、2000年代になって金正日が立てた「新朝鮮半島構想」を継承するというものだった。1980年代後半まで、北朝鮮は冷戦がつくりだした秩序の下で、ソ連や東欧の社会主義国家と第三世界国家との外交に重きを置いた。だが、社会主義圏が崩壊すると、韓国や米国、日本との関係改善に積極的に乗り出す「新外交戦略」を選んだ。これによって、90年から南北高官級会談が開催されて南北基本合意書(91年12月)となり、その年9月に日本の自民党の金丸信代表の訪朝を契機に日朝国交正常化交渉が進められ、92年1月には金容淳秘書とカンター米国務次官補との米朝会談が初めて行われた。特に金容淳秘書は米朝高官級会談で「東北アジアで北朝鮮と米国が同盟を結び、勢力均衡を成し遂げよう」と破格の提案を行って世界の耳目を集めた。すなわち、金日成主席の最後の対外路線は、敵対関係にある韓米日との関係を改善し、国交正常化によって東北アジアにおける冷戦体制を根本的に解消するというものだった。しかし、米国が北朝鮮の核問題を指摘し(第1次核危機)、日本で金丸代表が失脚し、金永三政権の「弔問問題」で南北関係が悪化、この対外路線はこれ以上進まなかった。

あちこちでネックとなった核問題

 金日成主席が死亡した後、労働党総書記(1997年)と国防委員長(98年)に推戴された金正日は「強盛大国論」を打ち出し、99年から再び全方位外交に出始めた。2000年には金正日訪朝(5月)、南北首脳会談(6月)、米朝特使交換(10月)が実現した。このような流れは、02年には初の日朝国交正常化交渉へとつながった。しかし、02年10月にブッシュ政権が核問題を指摘したことによる、いわゆる第2次核危機が始まり、このような流れは再び遮断された。

 2005年の9・19共同声明が出て、翌年ブッシュ大統領が「朝鮮半島終戦宣言」に言及し、金正日の「新朝鮮半島構想」はさらに具体化され始めた。07年10月に2回目の南北首脳会談が行われた。金正日の「新朝鮮半島構想」は、対外政策的側面から二つの主要内容が込められている。一つは、米朝関係を早い時期に後戻りできないレベル」にまで進めて米朝関係の正常化を成し遂げるというものだ。中間選挙で敗北してから積極的な米朝対話に舵を切ったブッシュ政権の政策を活用し、対北朝鮮経済制裁を解き、2000年後半のような米朝関係正常化局面をつくるという考えだった。

 二つ目は、米朝関係と南北関係を並行して発展させるという原則の下、南北協力を全面的に拡大させるというものだ。金正日は6・15宣言後にも「とても不安定な初歩的な状態の共存関係」に留まっている南北関係を、「統一を試行する確固たる平和共存関係」に転換させていくという構想を持っていたと把握できる。「2007年南北首脳宣言」では、これが「思想と制度の差を超越し、南北関係の相互尊重と信頼関係で確実に転換」するという表現が入れられた。特にこの宣言に「南と北は南北関係を統一試行的に発展させていくために、法律的・制度的装置を整備」して行くことを明記しており、北側でも南側で指摘する朝鮮労働党の規約改正への意志も込められている。金永三政権以降、南側では北朝鮮の対南政策に対し「通米封南」という言葉が流行語のように使われたが、北朝鮮は2000年代に入って、「通米封南」政策から「通米通南」路線に確実に転換したのだ。

 北朝鮮は李明博政権後にも、米朝関係と南北関係を並行して発展させるという政策基調を維持していた。北朝鮮は南北関係が断絶されている状況でも、数回、南北首脳会談を提案したこともある。北朝鮮の政策の方向性は、2011年1月、4年ぶりに発表された「政府、政党、団体連合声明」にはっきりと示されている。この声明によって、北朝鮮は「実権と責任を持つ当局間の会談を無条件、速やかに開催することを主張」し、「われわれは対話と交渉、接触で緊張緩和と平和、和解と団結、協力事業を含め、民族の重大事と関係するすべての問題を協議、解決していく」と明らかにしている。これにより北朝鮮は、「なんとかして6・15の流れを引き継ぎ、21世紀の新たな2010年代を、民族の悲劇を終える希望の年代に、統一と繁栄の年代にしなければならない」と主張した。そのどのときよりも強力な対話の提案だった。このような政策基調には、金正恩が後継者として登場した後、1990年代初頭から推進してきた対外政策を評価した後拡張された「包括的世界戦略」が込められている。

 しかし、北朝鮮は20111年6月に南北首脳会談秘密接触が最終的に決裂し、南側の対話意志がないことを確認すると、「李明博政権とは付き合わない」方向に旋回し始めた。特に11年12月「弔問論争」をきっかけに、金正恩後継体制安定化に注力し、対南強行路線を固めた。

南北関係を全面的に復元する必要

 北朝鮮が米朝、南北対話の並行路線を修正したのではなかった。これは、2012年に金正恩が国防委員会第1委員長と労働党第1書記に公式的に選出された後、同年4月15日に初めて公の場で演説した中によく表れている。この演説で彼は、「強盛国家建設と人民生活向上を全体的な目標としているわが党と共和国政府において、平和は何よりも貴重だ」と述べ、「平和」の重要性を強調した。そして彼は、「本当に国の統一を望み、民族の平和反映を望む人間であれば、誰とでも手をつなぐし、祖国統一の歴史的偉業を実現するために責任的で忍耐ある努力を傾ける」と発言、南北対話への意志を明らかにした。

 事実、金正恩時代に北朝鮮は対内外的基調は、金正恩による初の公開演説に含まれており、その点で2012年4月から始まった北朝鮮の対話局面への転換は予想されたレベルだと言える。金正恩時代の対外戦略である「包括的世界戦略」は、「経済建設と核武力の並進路線」に基づいているという点で、金日成時代や金正日時代とは違う。守勢的な立場から攻勢的な立場へ変わったのだ。「核保有」を前提に推進される金正恩時代の対外政策は、これまでの20年間、あちこちで米国の「北朝鮮核危機」がネックとなっていたのとは違うレベルから出てくるだろう。

 しかし、核という「金の斧」は家に置いておければよいが、金の斧では経済建設という木を切ることはできない。金正恩は初めての公開演説で「われわれには民族の尊厳と国の自主権がさらに貴重だ」と発言した。米朝間の非核化交渉と平和協定が議論される中で、米国が相互尊重の指針に基づいて自主権を保障する意志があれば金の斧を取り下げることができるという意味だ。2012年3月、米国で開かれた討論会に出席した李英鎬副大臣は「米朝関係は米国が主権尊重と平等という原則で関係を改善することを希望すれば、われわれも必ずそれに応じる立場」であることを明らかにした。対話と交渉による朝鮮半島非核化の可能性は、依然として残っていることになる。やはり、平和協定が朝鮮半島非核化の核心となる。

 国防大学校安保問題研究所のユ・ドンウォン米中研究センター長は、「東亜日報」とのインタビューで、「韓国もまた強大国の傷跡を引きずるのではなく、主導的になる必要がある。非核化への努力なくして対話派ない」という根本主義的態度にはリスクだけがあり、米朝間の妥協が軌道に乗った後には、莫大な経済支援負担を抱えることにあるだろう。したがって、観光は平壌を過度に刺激する代わりに、積極的な態度で南北関係改善に出るべきだ。これにより脅威を最小化することだけが、唯一の道だと思う」とアドバイスしている。

 今回、南北閣僚級階段の開催を「原則ある対北政策」の成果」と自画自賛する前に、朴槿恵政権は金正恩時代の北朝鮮が推進している「包括的世界戦略」をきちんと読み取り、南北関係を全面的に復元、拡大して平和協定を締結できる土台を準備することで、朝鮮半島の非核化を達成できる糸口を探すべきだろう。

(2013年6月10日)


鄭昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く