昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く

4 スーパーマーケットが「商業流通網」を変える

鄭昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く| 2016年06月09日(木)

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 2013年4月27日、金正恩は李雪主夫人を伴い、開業を前にした「海棠花(ヘダンファ)館」を視察した。大同江のほとりにある住民向け娯楽施設である。東平壌大劇場の前に新たに建設されたヘダンファ館の1階には、総合案内と商店、食事室8室、2階には宴会場2間と鉄板焼き、10室以上の食事室、3階には浴場とプール、4階には汗蒸幕、休憩室、清涼飲料、体力運動室、卓球場、ビリヤード、理容・美容室、皮膚管理室、5階には料理電子図書閲覧室、講義室、核種料理実習室、6階にはカフェが入っている。

 ヘダンファ館のリュ・ジェグァン責任者は「ヘダンファ館はまず上階の浴場、プールなどからサービスを受けるお客が下の階に降りてきて食事室でおいしい食事を取った後、1階の商店でお好みの商品を購入できるように設計された」と紹介する。営業時間は午前10時から夜12時まで。カフェは24時間営業だ。金正恩はここを見て回った後、「すべてが満点」と評価し、北のメディアも「設計と施工を新たな世紀の要求に合わせて行っており、どこに出しても遜色のない、現代的な総合サービス基地」と大々的に紹介した。北朝鮮で建てられた最高級の総合サービス施設である。

2009年から平壌各区域ごとにスーパーが建設中

 ところで、金正恩がここを訪問した時期が微妙だ。国連安保理の制裁とその後の韓米合同軍事演習で、朝鮮半島における緊張が最高潮に高まった状況だった。そのような状況のなか、金正恩は住民向け娯楽施設を訪問したためだ。特に、主な軍幹部たちすべてが軍服の代わりに人民服を着て鉄板焼きの調理師の妙技を見て破顔大笑する姿を見せている。韓国側ではこれを、4カ月間続いた緊張した雰囲気が緩和局面に転換される信号弾として注目した。実際に翌月、金正恩は人民軍総政治局長の崔竜海を中国に特使として派遣し、6者協議など多国間の対話に応じる意志を示した。

 しかし、ヘダンファ館で注目すべきは、食堂に設置されたスーパーだ。韓国メディアはこのスーパー内に韓国ブランドの化粧品が売られているという事実に関心を見せた。だが、まず注目すべきは、金正恩が登場して以降、平壌の各区域にスーパーと専門商店が続々と登場しているという事実だ。この4年間、金正日は専門商店とスーパーをしばしば訪れ、「世界的水準」で各区域ごとに商店を建設するように督励していた。

 専門商店の場合、2009年9月に中区域普通門通りに普通門商店と肉類の商店が「お手本」として初めて建設されてオープンした。普通門通り肉類商店は1階に鮮魚、2階では肉類を販売し、3階にはプルコギ食堂が入っている。普通門商店には輸入果実が主に販売されている。金正日と金正恩は、オープン直前にこれら商店を現地指導した。北のメディアは金正日がこれら商店を見て回った後、「首都市民の食生活をさらに向上させるためには普通門通り肉類商店の任務と役割が重要だと言い、社会主義商業の本性的要求に合わせて、奉仕活動を強化することへの指針となる綱領的な課業を提示した」と報道している。「人民たちが商品をより簡単に購入でき、より安い値段にすべきだ」ということと、このような商店を平壌を始め全国の主要都市にも建設すべきだということだ。

 ほかにも、2009年に平壌・大同江区域にオープンした三日浦特産物商品、12年2月にオープンした普通江水産物専門商店などをはじめ、多様な専門商店が独立的に、また新たに建設された食堂ビルにオープンされている。

北朝鮮で初めてのスーパー「光復地区商業中心」

 スーパーの場合、2012年1月にオープンした「光復地区商業中心」が最初だ。このスーパーは、1階にコメをはじめとする生活必需品とコンピュータなど電子製品の売り場があり、2階には衣類や家具などの売り場、3階には食堂とカフェ、子ども向けの遊び場が入っている。韓国や他の国でよく見かけられる形の大型スーパーだ。中国企業が投資し開業した北では初めてのスーパーでもある。

 平壌に支局を置く米AP通信のジン・リー朝鮮半島支局長は最近、米国での講演で「平壌に新たに生まれた光復商業地区がショッピングカートや商品陳列、バーコードなどが見受けられ、既存の北朝鮮の商店とは違う、新たなショッピングの形態を見せている。北朝鮮で商品を購入するために、外国人はいちいち外貨を交換しなければならない不便さを解消するため、「ナレ」という電子決済カードを便利に使っている」と述べたという。最近、米国「民族通信」のノ・ギルナム特派員は、「光復地区商業中心」を訪問した経験を次のように伝えている。

 「百貨店は誰も自由に入場できる雰囲気だ。入口から入ると、キャッシャーの横には外貨交換と書かれた小さな窓口が見える。そこには「きょうのレート」という案内とともに、1ドル=8000ウォン、1ユーロ=1万0240ウォン、1人民元=1270ウォン、1円=8120ウォンと書かれている。このレートは国際的な公式レートではなく、朝鮮を訪問する海外同胞や外国人向けの優遇レートである国内協同貨幣価格という。国際レートで交換すれば、1ドル=120ウォン程度。北朝鮮で一般住民が外貨を所有する場合、ブラックマーケットを防止して優遇を与え、そのような不条理を無くすために行った方便として、このような制度を実施するのだろうと考える。また米国や日本、韓国、中国などで商品を買うよりもより安い価格だ。食品や学用品、家具店、電子製品、自転車、生活必需品、記念品、子どものおもちゃなど、ないものがないほど多くの商品が陳列されている。このような雰囲気は、第一百貨店や普通江百貨店も同じだ」

新たに建設された食堂ごとにスーパーが設置

 このスーパーは連日大満員だと伝えている。2012年8月、倉田通りのヘマジ食堂内に、もう一つのスーパーが建設された。同年8月31日、金正恩は李雪主夫人を伴い、開業を前にしたヘマジ食堂を現地指導した。この食堂にはスーパーや大衆食事室、個別食事室、カフェ、精肉・鮮魚店がある。この日、金正恩は果実と野菜、牛乳や肉製品、酒類を販売するスーパーにも回った。特に彼は、食堂の簡易売り場で売られるポップコーンに、「とてもおいしそうな匂いがする」と言い、夫人とともに直接試食したことが話題にもなった。

 「スーパーには欧州と東南アジアなど世界の至る所で多種多様な加工食品と肉、水産物、乳製品、果物、お菓子、キノコ、豆類、酒などを販売し、特に新鮮な野菜と果物が好評だ。…スーパーには調理されたおかずを販売する空間には調理師が寿司などをつくる姿をお客が直接見ることができ、外国の食料品を初めて見るお客が買う前に商品の味見をできるように無料試食も実施している」

 朝鮮総連の機関紙『朝鮮新報』の特派員が取材したヘダンファ館の姿だ。このスーパーには、平壌市民だけでなく外国人客も利用しており、帰宅時間となる夕方5時以降に訪れるお客が多いという。ヘマジ食堂の営業時間は午前10時から午後9時まで。カフェは24時間営業だ。ここでは、コカコーラが1杯500ウォン(北朝鮮)、ペプシコーラが450ウォンで売られている。13年10月までに、平壌・万寿台地区地下便宜商店(スーパー)建設事業も完成する予定だ。金正恩は「(万寿台地区)周辺に住宅が多く建設されているのに、住民たちの生活に便利な施設をきちんと建てるべきだ」とし、ここにスーパーを建設することを指示したという。

 2013年初頭、平壌を訪れた中国人は「2009年に普通門通りに商店と精肉店ができてから、平壌の各区域に相次いで専門商店ができたり、建設中だ。新たに建設された大型食堂にも、例外なく大型商店やスーパーが設置されている」と言う。

 それならば、金正恩はなぜ、専門商店と食堂内スーパー建設などで新たな商業流通網を積極的につくっているのか。人民に対する便宜奉仕の水準を高めるという側面以外に、多様な目的があるようだ。

1990年代以降に市場とチャンマダンが急増

 まず、1990年代に「苦難の行軍」を経て、爆発的に成長した「地域市場」と「チャンマダン」を縮小しようという意図が潜んでいる。過去、北朝鮮は国営商店網を通じて醤油や味噌、食用油などの「必須食料品」と学用品、服、靴、タバコなど生活必需品を安く供給(販売)していた。しかし、90年代以降、生産工場の稼働率が低下して供給が不足すると、北朝鮮住民は足りない食料品などを市場で高い価格で買わなければならなくなり、結果的に「市場流通量」が大きく増加した。

 「チャンマダン(農民市場)は以前からもありました。ところが、利用する人はこれといっておらず、そのため規模もとても小さかったです。人民たちも十分な配給があるのに、何を買うためにチャンマダンまで行って買うのか、とチャンマダンに出入りする人間を快く思いませんでした。また、国もそれほど神経を使っていませんでした。社会主義が完全に定着したのであれば、チャンマダンはそのうちなくなるためです。そんな時期がありました。ところが、最近になって規模が大きくなったのです。…最近は企業所ごとに自分で解決しなければならず、国家が何もしてくれなくなりました。わが社も利益の30%を国家に出し、残りを給料として与え、農産品などを購入して自主配給しています。すると、自然とチャンマダンを利用するほかないんです。そんな状態になってずいぶんと経ちました」

 在米同胞のシン・ウンミさんが2011年に北朝鮮・羅先市にある市場を訪問した際に、北朝鮮側の案内員から聞いた話だ。国営商店網(百貨店、工業品商店、食料品商店、総合商店と専門商店、職場商店など)を通じた国家の商品供給が支障を来すと、農民市場の規模がそれだけ大きくなったことがわかる。

 その10年前の2003年2月24日、筆者は黄海道を横断したことがあるが、その時に道と道、軍と軍の警戒地点には必ずと言っていいほど自生的にチャンマダンが開設されており、市場周辺の通りは人で混雑していた。ある家では、「すべての工業製品を売ります」という看板が公然と掛けられており、違法な商売をやっていた。横に座って北朝鮮側の案内人に「あんなことは違法ではないか」と聞いてみると、「今のような苦しい時期にきちんと食べて生きていこうというのに、事実上、取り締まりは難しい」と答えるほどだった。

 農民市場は当初の趣旨が変わり、計画経済の補完的役割から抜け出し、次第に住民たちの衣食住など個人の経済生活を満足させる機能を行うようになった。この過程で、以前には取引が禁止されていた品目であるコメやトウモロコシのような穀物と、電子製品のような工業製品、医薬品、輸入品などが公然と流通し始めた。もともと10日ごと開かれる市場が毎日開業となった。場所も指定された場所ではなく、あちこちで市場が建ち、誰もが市場で商売を始めるようになった。

 農民市場の機能拡大と国家の統制弱化は、「私的部門」の拡大につながり、計画経済システムを脅かすレベルに達した。農民市場が国家当局の干渉をまったく受けず、個人的なレベルで行われているため、公式的に容認できる私的活動であるかもしれないが、時には違法活動まで行われるようになり、副作用が集中して発生し始めた。

 実際に、北朝鮮当局は2001年に出された内部文書で「最近、1年間に国家が食糧をきちんと供給できなくなると、多くの者たちがすでに持っている職業さえ捨て、商売をしながら個人の生活を行うほうに移った」と批判している。

2003年に農民市場を総合市場に改編

 状況がこうなると、北朝鮮は農民市場の拡大による副作用を止めるため、1999年4月に「人民経済計画法」を採択し、社会主義計画経済を固守するという強い意志を明らかにした。人民経済計画法は、計画経済部門の規律を確立し、これまで沈滞していた計画部門の経済活動を正常化・活性化し、弱まった国家の社会、経済への統制力を回復せるという意味があった。

 同様に北朝鮮は、現実的に機能している農民市場の役割を幅広く認める措置をとった。実際に、北朝鮮では「市場」を遠ざける理由はない。解放以降、人民市場、農村市場と呼ばれていた市場があり、国有化が完成した以降にも農民市場があったためだ。農民市場という名前の市場が初めて登場したのは、北朝鮮で社会主義が完成された1958年。同年8月に発表された内閣決定140号には、農民市場について「協同農場などの共同経理と協同農民たちの個人副業経理で生産された農産物と畜産物の一部を農民たちが一定の場所を通じて住民に直接販売する商業の一つの形態」として規定されている。

 当時の農民市場は、販売者である農民と購買者である都市住民の生活上の便宜を考慮して、原則的に軍所在地である邑と労働者区、大都市の区域単位にそれぞれ一つずつおき、10日開催する形態で運営されていた。北朝鮮当局は住民が農民市場を合理的に利用できるように、市場内に農民が提供する商品の種類によって、いくつかの売り場(販売台)と農産物、肉類、家禽、手工業製品の売り場などを設置した。農民市場で農産物を主に販売し、工業商品は必ず国営商業網を通じて計画的に供給するように制限された。

 北朝鮮の公式統計によれば、農業協同化と産業の国有化が完成され、国家的レベルの供給体制が全面的に実施された1950年代後半から60年代に、農民市場の小売商品流通額は、流通額全体の1%程度にも満たなかった。農民市場は国営商業網を補佐するかなり制限的な役割を担っていたのみだった。ところが、90年代になって農民市場が事実上、総合市場に変貌し、国営商店網を通じて十分な量を住民に供給できない状況で、北朝鮮当局が市場の活用に出ざるを得なかったのである。

 2003年3月に金正日が直接「市場を人民生活に便利で、国の経済管理に有利な経済的空間として利用することについて」方針を出した。それまで、行政官僚にとって市場とは、経済活動方式に否定的な傾向があり批判の対象だったが、金正日の方針が出てからは、北朝鮮は当局が出て市場を適切に統制しながらも、逆に活用する方向へと転換することになった。

 北朝鮮の国家計画委員会のチェ・ホンギュ局長は2003年4月、『朝鮮新報』とのインタビューで「3月末から平壌でも各区域ごとにある農民市場を市場と呼ぶようになった。農産物だけでなく、各種工業製品も取引されている現実に合わせて名前を変えたことになった」と明らかにしている。農民市場の総合市場への変化は、チェ局長が指摘したように、「市場を統制の対象として見ず、社会主義商品流通の一環として認定」する措置だ。北朝鮮当局が役割が高まった農民市場の機能を認め、「計画と市場の共存」させることを公式的に決定したことになる。

全国に300カ所の総合市場を運営

 こうして、2004年にオープンした統一通り市場を皮切りに、各区域ごとに総合市場形態の地域市場が新たに作られたりリニューアルされた。地方にも市、郡、区域単位で住民数と地域的特性を考えて住民たちが利用しやすい場所に一カ所、あるいは数カ所の地域市場が指定・運営された。農民市場で取引される商品類と販売者が以前とは完全に変わった状況を考え、地域の名前によって統一取引小、ピョンチョン市場などと名前を変えて呼ぶようになった。北朝鮮が承認した市場は300カ所ほどになるという。

 韓国側では、「市場の合法化」という側面に注目して体制転換まで議論された。しかし、北朝鮮の意図は「計画と市場の調和」を打ち出し、計画経済の枠内で市場を統制させようというものだった。われわれが考える市場と北朝鮮が認めた総合市場は、根本的に性格が違う。北朝鮮が市場の運営管理方針を入れた2003年の内閣決定第27号は、市場の閉店時間まで詳細に規定されている。

 2004年にオープンした統一通り市場の場合、販売員はすべて女性で1500人。商品を売る個別住民、国営企業所、協同団体は市場使用料と国家納付金を出す。地方の市場は各道、市、郡の人民委員会が運営を担当し、管理員を置いて秩序を守らせた。市場も国営企業所であり、国家納付金を納付しなければならない。市場価格も全面的に需要と供給の原則によって決められるわけではない。重要品目の場合、限度価格が設定され、価格の変動幅を制限している。

「市場」という言葉はすでに不穏な単語ではない

 とはいっても、北朝鮮で「市場」はこれ以上「不穏な単語」ではなく、過去の「農民市場」と呼ばれていた時代の市場でもない状況になった。2003年10月初旬、平壌・高麗ホテルで、中区域に住む30歳代半ばの女性奉仕員と会い、交わした対話内容がこれをよく示している。

―市場にはよく来ますか。

 中区域には市場がなく、主に隣のピョンチョン区域ヘウン洞にある市場に行きます。1週間に1回以上は行きます。コメ、副食などは国家の配給体系を通して買って食べるため、国営商店には足りない野菜や雑穀類、靴などを主に市場で購入します。

―統一通りに現代的な市場の建物がありますが見ましたか。

 統一通り市場は1カ月ほど前にオープンしました。きちんと整えられた施設で、近所から来た住民たちで混み合っています。販売員は主に主婦や高齢者が多いですね。

―市場の商品価格も国家が決めますか。

 商品価格は品目別に国家が決めた基本価格であり、品質によって「合意価格」が決められます。商品価格を下げようと交渉することもあります。市場経済を行ってからまだそれほど経っておらず、まだ慣れていない店もあります。

―一般的に住民が「市場経済」という言葉を使いますか。

 市場で商品を売り買いすることが市場経済ではありませんか。いまも市場で商品を売り買いしているのに慣れてなくて、時間をかけながら適応しています。

―2002年の社会主義経済管理改善措置(7.1措置)以降、市場が大きく変わりましたか。

 市場が活性化され、生活が楽になりました。過去には生活費が農民市場の物価に追いついていませんでしたが、今では生活費が上がり、市場でいろんな商品を買えるようになり便利になりました。

 市場の活用は工場や企業所の運営にも変化をもたらした。工場、企業所、協同団体が市場で製品を販売できるようになり、工場や企業所では国家計画の超過分を市場で売ることができるようになった。朝鮮総連が発行する月刊誌『祖国』2004年1月号で、北朝鮮の商業省商業局のチャン・ドギル副局長は「現在、わが国の市場は人民の生活上の便宜はもちろん、経済管理にも有益となっており、地方予算の収入も高まっている」と明らかにしている。国営企業所も市場で資金を調達できる道が開かれたことになる。ただ、市場に出せる商品は決められた30%以上の限度を超えないように制限された。

工場・企業所のための物資交流市場も登場

 これ以外にも、工場や企業所は新たに開設された社会主義物資交流市場や輸入物資交流市場などを活用できるようになった。物資交流市場は総合市場より先に2001年10月、指針を通して導入された。金正日が資材供給事業において計画を基本とするが、補充的に物資交流市場を組織・運営するように指示したものだ。生産物の一定比率を資材用物資の交流に使用できるようにし、交流物資の種類と範囲を規定しいる。計画機関は実質的生産量の3~10%を物資交流に使うように、指標別に規定しておく。計画外の超過生産品や生産正常化のために受け取った製品、必要以上の余裕分、企画あるいは用途が合わず放置されている物資が交流対象として選ばれている。

 ただ、その割合は大きくない。2003年10月当時、大安重機械連合企業所のキム・ドクフン支配人は「一連の措置がいくつかの憶測を招いているようだが、それはわれわれの経済の主流では決してない。つまり、われわれの場合、物資交流市場に参加したり生産した製品を市場で販売し受け取った収入は、総収入の2%にもならない」と明らかにしている。

 2005年6月からは、中国企業と合作した輸入物資交流市場も運営され始めた。工場の現代化が加速化され、外国から設備を買ってくるケースが増えたためだ。代表的な例としては、普通江区域につくられた普通江輸入物資交流市場だ。平壌だけでなく、元山や興南、清津、南浦など各道の中心都市にも地方輸入物資交流市場が開設された。ここで工場や企業所関係者は、建築資材や鋼材、塗料、農機具、樹脂製品、ゴム製品、機械付属品、肥料など、数千種類の輸入資材と機械付属品、興業製品を購買できるようになった。

 2005年10月26日付の『朝鮮新報』とのインタビューで、中央輸入物資交流総会社のキム・ウンヨン副総社長は、この市場の利点として「必要な原料、資材を海外に直接行かなくても購入できるようになったこと」を挙げている。原資材を市場で購入でき、市場を通じて注文も可能になった。ここでは現金がなくても流通できるだけでなく、物資対物資の決済、現金流通も許され、物資交流市場との差別化が見られる。資本主義市場での取引方式がすべて適用されている。しかし、キム副総社長は「朝鮮では市場も社会主義計画経済の一部分。国内で生産された原料や資材を交流する社会主義物資交流市場や、人民生活の消費物が流通する総合市場と同様に、輸入物資交流市場も国家の唯一的な掌握・管理の下に社会主義経済原則によって運営されている」ことを強調する。

 すなわち、2000年代に入って、北朝鮮には「総合市場」「物資交流市場」「輸入物資交流市場」が登場したが、基本的に「社会主義計画経済」から抜け出さない線で適切に統制されている市場だった。総合市場の運営主体も国家の統制を受ける「市場管理所」として、それ自体がひとつの国営企業だ。

チャンマダンの縮小、財政拡大など多目的に布石打つ

 しかし問題は、北朝鮮当局が決めておいた市場内での商業活動以外に、市場周辺にはさらに大きな規模の「チャンマダン」が形成されており、市場外でも群小規模のチャンマダンが依然として盛んである点だ。国営商店と総合市場を通した供給が依然として住民たちの需要に追いついていないためだ。同様に、北朝鮮内部の社会主義原則論者の立場では、総合市場の活性化自体が社会主義とは距離があると判断した。

 2005年10月、北朝鮮当局は食糧配給体系の正常化を宣言し、市場で穀物販売を禁止する措置を出した。経済論理ではない、強圧的な方法で市場統制に打って出た。特に、平壌市内の市場に任意の物価引き上げ禁止など4項目の規制案を用意し施行した。規制項目は、①最高価格を制限する価格統制を実施し、物価を任意に引き上げることは厳禁、②市場外での取引の禁止、③自動車など大型輸送手段による遠距離販売を厳禁、④販売商品を生活用品などに限り国家が統一的に管理する商品および生産手段の販売については不許可、というものだった。とはいえ、食糧と商品供給が正常化できないまま、このような措置を出してはかえって逆効果だった。北朝鮮は、平城市場など主要卸市場を閉鎖し、09年11月に突然の貨幣交換を実施し、市場の領域の縮小を試みたが、効果は制限的だった。やはり物資供給が円滑に行われなかったためだ。

 そのような状況の中で、2009年に金正恩が後継者として登場、北朝鮮は根本的に思考を変えた。「世界的趨勢」に合った、現代的な大型スーパーと専門商店を建設して新たな「商業流通網」をつくり、自然と市場領域が縮小されるように政策転換を行ったのだ。供給を増やさないことには市場縮小が難しいことを理解したことになる。韓国で大型スーパーと企業型スーパー(SSM)が増えると、伝統的な市場が萎縮されるのと同じ論理だ。韓国では伝統市場を生かすための法律をつくり、大型スーパーとSSMの営業活動を制限する措置をとっているが、北朝鮮は逆に、これによって拡大された総合市場とチャンマダンを縮小させようというのだ。これが、09年から北朝鮮に専門商店とスーパーの建設ブームになった最も重要な理由だ。

商業流通革命が成功するかは地方経済活性化にかかっている

 また、北朝鮮は新たな商業流通網によって税収を増やす一方、物価高を抑制するという構想も持っているようだ。既存の市場価格は品目別の生産指標、需要と供給を考慮して国家が決めている。基準価格を決め、その基準価格に基づいて一定範囲内で工場や商店、市場において弾力的に最終販売価格を決めることができる。もちろん、国営商店網による物資供給が足りないため、市場販売価格は国定価格よりはるかに高くなる。さらには、総合市場周辺に形成されたチャンマダンと自然発生的にあちこちにできたチャンマダンは北朝鮮当局の統制外にあるため、価格も変動がひどく、税金も出すことはない。

 金正恩は2012年8月31日にヘマジ食堂スーパーを訪問し、「スーパーを正常的に運営しようとすれば、食料品価格をきちんと決め、営業戦略をきちんと立てるのが特別に重要」と強調した。ショッピングに便利で現代的なスーパーで「総合市場」より安い価格で商品を販売することで財政収入を増やし、物価も安定させるということだ。12年、北朝鮮の市場では豚肉1キログラム1万5000ウォン前後で販売されていたが、平壌の専門商店では加工包装された豚肉1キログラムに1000ウォン前後の価格が策定された。当然、市場よりスーパーに足を向けるほかない。04年4月から統一通り市場では「卸班」も運営され始めた。卸班で歯磨き粉、歯ブラシ、油、砂糖、塩など一般消費品を低い価格で買い求め販売することで、市場全般の商品価格を調整するものだ。

 スーパーと専門商店の登場は、工場や企業所の生産活性化と新たな流通網の確保という側面でも重要な意味を持つ。現在、光復通り商業中心で売られる商品の80%程度が中国など外国産のようだ。総合市場と群小チャンマダンで売られる製品の大多数も中国産だ。しかし、専門商店を建設しながら、北朝鮮は国内産品の比重を高めている。北朝鮮メディアによれば、普通江通り精肉店の場合、「商店の各売り場に並べられているすべての商品は国内産。全国各地の養魚場と肉加工工場で生産された製品」が販売されている。北朝鮮の軽工業工場が一つ、二つと正常化され、国営商店網を通じて醤油や味噌など基礎生活品から衣料、カバンなど生活用品を市場価格の半分以下の価格で供給している。また国内工場が生産した製品の質を高め、専門商店を通じて流通させることで、工場や企業所の販売収益を安定的に保証できるように試みている。

 このような北朝鮮の構想が成功すれば、商業流通革命と言って十分だ。地域市場とチャンマダンで一定の富を蓄積した市場勢力層も打撃を受けるだろう。問題は、やはり北朝鮮の商品供給能力だ。同様に、平壌以外の地方都市にどれだけ早く専門商店とスーパーを建設できるかがカギとなってくる。地方の場合、自主予算の確保が簡単ではなく、光復通り商業中心のような海外投資を誘致できてこそ、スーパー建設が可能だ。金正恩時代に北朝鮮が行う流通革命が成功するかどうかは、海外投資の誘致と平壌ではない地方都市の経済活性化と直結している。ただ、流通革命の成功、失敗にかかわりなく、スーパーと専門商店の登場が、金正恩時代の北朝鮮は思考を変えたことがよくわかるケースだ。

(2013年5月27日)


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