昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く

2 金正恩時代の「変化」を準備してきた金正日

鄭昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く| 2016年06月05日(日)

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 「わが人民が再びベルトを締め上げることがないようにし、社会主義富貴栄華を心から楽しめるようにしようというのが、わが党の確固たる決心です。…一心団結と不敗の軍事力に新たな世紀の産業革命を加えると、それはまさしく社会主義強盛国家です。われわれは新世紀の産業革命の炎、咸南の炎をさらに燃やし、強盛強国を全面的に建設する道に入るべきでしょう」

 2013年4月15日、金正恩は金日成広場で開かれた金日成主席生誕100周年となる太陽節を記念する人民軍閲兵式で、20分にわたって公の場で演説を行った。この演説は金正恩時代の始まりを公式的に始まったことを知らせ、自らの構想と路線を圧縮的に紹介したものとなった。「新世紀の産業革命」によって「経済強国」を建設するというのが主な内容だ。北朝鮮は新世紀の産業革命とは、「最先端突破線でわれわれ式の知識経済強国を立ち上げるための聖なる闘争であり、わが党が打ち出した社会主義建設の雄大な戦略的路線」と規定する。

「新世紀の産業革命による知識経済強国を達成」

 金正恩は初めての公開演説に先立ち、2013年4月6日に労働党中央委員会責任幹部たちとの談話でも、「今日、世界は経済の知識化へと転換している。国の経済を知識の力で成長する経済へと一新すべき」ことを時代的な課業として提示している。特にこの談話では、金正恩は「自分の土地に足を付けて、目は世界を見ることに対する将軍様の意志で高い目標と理想を持って闘い、すべての面で世界を踏んだで立ち上がるべき」だと強調し、「自分の土地に足を付けて、目は世界を見よ」という金正日の命題を革新的な遺訓として提示した。

 金正恩の言及は、二つの側面から注目できる。まず、金正恩時代は金日成、金正日時代の思想と路線をそのまま継承するという点だ。金正恩は「全社会の金日成、金正日主義化は全社会の金日成主義化の革命的継承であり、新たな高い段階への深化発展」と規定している。初めての公開演説で言及した「自主の道、先軍の道、社会主義の道」という表現も、金正恩が後継者に決定した後、常に強調されてきたものだという。金正日時代の継承を標榜することは、北朝鮮の「後継者論」において最も重要視される点が、「首領に対する無限の忠実性」という点からみても、当然な帰結だ。このような側面から見ると、北朝鮮が改革開放に進むことができる出発点である思想と理念の変化はない。中国の場合、改革・開放に先立ち、鄧小平主導で理念の解放が先行されたが、北朝鮮では金正恩時代にもそのような変化は起こらなかった。

政策の解放はなされた

 二つ目は、金正恩時代の基本路線は、2009年に金正恩が後継者としての活動が始めると同時に、金正日主導で準備され、変化を模索できる余地を用意したという点だ。

 これについて朝鮮総連の機関紙『朝鮮新報』は2012年7月11日付で、金正恩が「経済の知識化が促進され、世界の趨勢に合わせて人民の生活を向上させうるわれわれ式の発展目標と戦略戦術をすでに打ち出されたと伝わっている。金第1委員長の発展戦略は、将軍様の親筆命題貫徹」と報道している。ここで触れられた親筆命題の内容が、09年12月17日に金正日が竣工式を前に金日成総合大学電子図書館へ送った「自分の土地に足を付け、目は世界を見よ」だ。注目されるのは、金正日の革新的な遺訓で強調されているこの言葉が、金正恩時代に北朝鮮が変化を追求できる基準として作用しているという側面だ。「理念の解放」は行われていないが、「政策の解放」は可能になったということだ。

 特にこの「命題」が2009年に出たという点が重要だ。北朝鮮が後継者を決定し、2回目の核実験で核保有国を宣言した時点であることだ。実際に、09年に金正恩の後継体制構築・登場する過程は、新たな指導者に合う新たな政策方向を樹立することとともに進められた。この1年間で見られる金正恩の行動と政策の方向性は、この時点ですでに党内の内部論争を経て確定されたとみることができる。北朝鮮は09年5月に2回目の核実験を行った後、10年9月の党代表者会の開催前まで、内部的に対内外の政策基調をめぐって相当の議論が進められたという。中国の学者たちを通して流れて来た話を総合してみると、議論の中身は、①東北アジアでG2に浮上してきた中国との関係設定をどうするか、②計画と市場の調和、自立経済と経済特区の拡大に関する問題、③六者協議と平和協定問題、④南北関係、など主題が多岐にわたっている。該当主体を担当する党と内閣の政策担当者が幅広く参加しての議論だったという。

2009年から新たな政策樹立

 まず、中国との関係をどう設定するかという問題は、大きな混乱もなく方向性が決定された。北朝鮮の核実験直後、北朝鮮に対する国連の制裁に同調していた中国が、党内の議論を経て北朝鮮に対する全面的な「包容政策」に転換したためだ。中国は2009年7月に党中央外事領導小組(組長・胡錦濤主席)会議を開催して対北政策を再検討し、北朝鮮問題と北朝鮮の核問題を分離させることを決定。そして09年末に温家宝首相の訪朝が、この出発点となった。

 北朝鮮は1991年の国連南北同時加盟の際、「時間をもう少し遅らせてほしい」と金日成が要請したが中国は拒否した点、90年代半ばの「苦難の行軍」時期に大々的な経済支援を行わなかった点、中国の改革・開放を修正主義として評価した点などがあったため、中国に対する不信が強かった。しかし、党内論争を経て東北アジアで中国がG2として浮上、中国との交流がとても重要になった点、後継体制を安定化させるために中国の支持が絶対的に必要だという点、中国が一方的に米国の圧力を受け入れない程度に成長した点、「中国式の経済モデル」を部分的に受け入れるべきとの若い世代の要求などを考慮し、中国との全面的協力体制構築へと結論を出した。それが、2010年と11年にわたって3回も行われた金正日訪中となって可視化した。

 金正恩時代の経済路線と関連して、1990年代初頭、金日成時代に提示された「三大第一主義」が基準となった。金日成は93年12月8日に「革命的経済戦略」を発表、軽工業と農業、対外経済を重視すべきとの「三大第一主義」を標榜したことがある。2013年3月の全員会議によって、北朝鮮①人民経済の先行部門、基礎工業部門の生産力増大、農業と軽工業に対する力量集中による最短期間内の人民生活の安定、②知識経済の転換、対外貿易の多角化・多様化を通じた投資活性化などを提示したことも、このような議論を反映したものだ。

 しかし、計画と市場の調和、自立経済と経済特区の拡大という問題については、「朴南基路線」と「朴奉珠路線」に大別される強硬・穏健路線に相当な論争があったという噂だ。初期には「朴南基路線」が大勢を掌握した。2009年6月に金正日は「全体人民が強盛大国建設のための新たな大高潮から自力更生、艱苦奮闘の精神力を高く発揮させるべきだ」という内容の「6・25談話」を出した。この談話の革新は、北朝鮮が自力更生路線を堅く守りながら計画経済を正常化させるということだ。これに従って、09年11月末に北朝鮮は突然貨幣改革を発表し、市場統制を強化した。

 ただ、対外貿易や経済特区の拡大政策はそのまま維持された。金正日は2009年9月初旬、内閣の貿易省と対外事業機関の主要幹部を対象に、対外貿易の拡大と海外資本の誘致を促し「米国をはじめとする西側の資本誘致に注力すべき」と指示した。そして、羅先市と南浦市を特別市に指定し、経済特区とするようにした。外資誘致と合営・合作など外国と関連したすべての事業を統一的に始動する国家的中央指導機関として、朝鮮合営投資委員会と朝鮮大豊国際グループも組織した。

 対内的に市場を統制し、計画経済を復元しながら制限的な対外開放に出るという二重的な政策決定だった。しかし、貨幣改革の問題点があらわになり、状況は反転した。2002年7月1日に始まった社会主義経済管理改善措置を主導し、07年に失脚した朴奉珠元首相が2010年に労働党軽工業部第1副部長に復帰し、翌年には軽工業部長に昇進。金正恩時代の経済をリードする中心人物として浮上した。党内論争で「世界的趨勢」を反映し、「市場経済的要素」を受け入れるべきという路線が最終的に勝利したことになる。

「核保有」に基づいた対外政策

 対外政策もまた、1990年代初期の金日成時代に提示された最終路線が基準となった。朝米関係正常化を中心としながらも、南北、日朝対話を並行して全方位的に推進していくというものだ。90年代初頭、北朝鮮は朝米高官級協議、南北基本合意書の採択、日朝関係正常化などを同時に推進したことがある。これについて、外務省の金桂寛第1部長は09年12月に訪朝した米国のビル・リチャードソン州知事に「包括的な対外戦略」と表現した。ただ、2回目の核実験によって「核保有国」になったという前提に基づいて調整が行われた。

 2009年5月の核実験の直後、労働党宣伝扇動部副部長の内部講演によれば、北朝鮮は2度目の核実験の成功で核保有国になり、これによって安保問題が基本的に解決されたため、すべての力量を経済発展、人民生活の発展に回すことができるようになったと判断した。国際社会が認めようが認めまいが、核があるということを発表し、実験によって立証されたため、長期的に国際社会も「事実上の核保有国」として認めるほかないというものだ。特に北朝鮮は「非核化が首領様の遺訓であり、われわれの最終目標」であるため、核兵器を持とうとはしないが、米国の敵対視政策でどうしようもなく核兵器を持つようになり、核兵器を保有しているため、非核化にも有利な環境が作られたと結論づけている。

 このような結論によって、北朝鮮は2009年7月に「六者協議は永遠に終わった」と宣言した。これは、平和協定に関する論議がない六者協議には復帰しないことを意味する。2010年1月、北朝鮮は「非核化に関した戦略的決断がなく、平和協定会談を提案しないだろう」とし、平和協定に関する問題が議論されてこそ六者協議に復帰できるという立場を明らかにした。朝鮮半島非核化と平和協定の締結を同時に論議されれば対話へ進むことができるが、米国が軍事的圧迫に出れば、今後も核とミサイル実験を行わざるを得ないということだ。

 2009年、党内での議論の過程で南北関係の問題は最も大きな議論すべきテーマだった。いわゆる対話派と強硬派が、真っ向から対立したという。結局、対話基調は維持するが、思い通りにいかない場合には強力に対応するとの結論が出された。その結果、離散家族の面会と金剛山観光会談を提案、南北首脳会談のための水面下接触と続くなか、延坪島砲撃のような対南挑発が起きた。その後にも、南北首脳会談のための接触、相互秘密特使交換など、南北対話のための模索は続き、11年に2回目の南北非核化協議が開かれもした。

 北朝鮮のこのような政策方向は、2011年1月に4年ぶりに発表された「政府、政党、団体連合声明」でも維持された。この声明を通して、北朝鮮は「実権と責任を持った当局間の協議を無条件、迅速に開催されることを主張」し、「われわれは対話と交渉、接触で緊張緩和と平和、和解と談合、協力事業を含めて民族の重大事と関連したすべての問題を協議、解決していくだろう」と明らかにしている。これまでにない強力な対話への提案だった。しかし、北朝鮮は2011年6月に南北首脳会談秘密接触が最終的に決裂し、韓国側に対話への意志がないことを確認すると、「李明博政府とは付き合わない」という方向に旋回し始めた。特に「弔問論争」をきっかけに、金正恩後継体制の安定化に注力しながら韓国には強硬姿勢を続けた。北朝鮮は過去にも新たな「唯一的領導体系」が確立される機関に、外部の「脅威」と判断される発言と政策に対しては強硬な姿勢を見せてきた。

 ただ、北朝鮮が「朝米、南北対話の並行」基調を完全に変えたのではないと思われる。金正恩は最初の演説で、「本当に国の統一を望み、民族の平和反映を望む人間であれば、誰であっても手を結んでいき、祖国統一の歴史的偉業を実現するために責任を持って忍耐を持つ努力を傾けていく」と発言し、南北対話への意志を込めている。

経済建設と「変化」に傍点

 このように、金正日時代の最後の3年間、後継体制を構築していく過程で労働党内部で議論され決定された政策は、事実上、金正恩時代を準備する政策転換だった。2002年の社会主義経済管理改善さえも、国際情勢の悪化と内部の反発で座礁したことからわかるように、自らが主導して構築しておいた北朝鮮体制を金正日自ら変化させようにも限界が明らかに存在した。体制維持に注力せざるを得なかった時代的状況もあった。そのような側面から、金正日の最後の3年間は金正日時代の決算であり、変化への条件をつくる過程でもあった。

 そして、金正恩時代の開幕とともに、現実にそれらの政策が出始めた。2012年4月、金正恩の初めてとなる公開演説が、その出発点となった。金日成時代の「自主」と金正日時代の「先軍」の旗幟を継承しながらも、新たな時代に合わせて「社会主義強盛国家」建設のため、制限的ではあるが「変化」を試みるという点を予告したものとなった。そして、その変化は政治や軍事的側面ではない、経済政策でまず始まるだろうと予想される。特に1990年代後半、北朝鮮の3~4世代たちは「苦難の行軍」という深刻な経済難を経験しただけに、経済復興に対する熱望もまた強いと言えるだろう。閣僚級の人間たちの交替が活発な点も、若い経済官僚の浮上を意味し、経済管理改善の必要性による専門性と能力が考慮されていることを意味する。

 もちろん、金正恩は最初の演説で「われわれが先軍朝鮮の尊厳を万代に光り輝かせ、社会主義強盛国家建設の偉業を成果的に実現すれば、最初にも2回目でも3回目でも、人民軍隊をあらゆる方向で強化していくべきだ」と先軍思想を強調した。多くの北朝鮮専門家が、この発言と対北経済制裁に対する北朝鮮の強硬対応などを取り上げ、金正恩時代でも北朝鮮に大きな変化は期待できないと失望した。しかし、北朝鮮が先軍路線を放棄してこそ変化が可能という主張は、北朝鮮の認識とはあまりにも離れた希望事項に過ぎない。それよりは、「自主」と「先軍」の継承を標榜しながら、「知識経済強国」を建設するため変化を模索するほかない金正恩時代の条件と状況に注目することのほうがより現実的だ。「政策の解放」が、長期的に「理念の解放」をもたらすかどうかに関心が集まっている。

 「人民が再びベルトを締め上げることないようにする」という金正恩の公開発言は、北朝鮮が今後、経済建設に注力するほかないということを意味し、このためには「市場経済的要素」の導入と対外開放が必須だ。「経済建設と核兵器建設の並進路線」も、傍点は経済建設にある。ただ、北朝鮮が考える変化の幅と、われわれが期待する改革・開放のレベルが違うだけだ。成功するかどうかはもう少し見守る必要があるが、北朝鮮住民は金正恩時代になって進行中の変化を、相当な衝撃を持って受け止めており、期待感を持っているものと思われる。

(2013年5月13日)


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