昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く

1 金正恩時代は金正日時代と違う

鄭昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く| 2016年05月22日(日)

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「鄭昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く」は、2013年5月6日から15年1月5日まで、韓国の北朝鮮専門ニュースサイト『統一ニュース』に掲載された連載の翻訳です。

連載を始めるに当たって:金正恩時代は金正日時代と違う


 「自分の土地に足を付けて、目は世界に向けよ!」

 2009年12月17日、金正日が竣工式を前にした金日成総合大学電子図書館に送った親筆だ。北朝鮮はこの言葉について「しっかりとした精神で、自分の力で立ち上がりながらも、学ぶべきことは学び、受け入れるべきことは実情に合わせて受け入れ、すべてのことを世界最先端水準に発展させていくこと」と説明する。このスローガンは金正日の名前で提示されているが、事実上、金正恩時代を念頭に置いたものだ。「自分の土地に足を付けて」は、金日成・金正日時代の継承を、「目は世界に向けよ」は金正恩時代の指向性を表している。

継承と鮮明になった変化

 2012年4月15日、公の場で初めて演説を行った際にも、金正恩は金日成時代の「自主」と金正日時代の「先軍」を継承すると述べながら、新たに「新世紀の産業革命」について触れた。「一心団結と不敗の軍事力に新世紀の産業革命」を合わせれば、それこそまさに「社会主義強盛国家」ということだ。世界との交流を拡大しながら先端科学技術を自主開発・導入し、知識経済時代に合う経済構造を完備するという構想だ。

 金正恩が登場して以来、彼の行動と北朝鮮社会の変化は「自分の土地にしっかり立って、目は世界に向けよ!」というスローガンに集約される。「目を世界に向けよ」というスローガンは、単純に世界的なものを受け入れるというだけでなく、既存の思考方式を変え、すべての分野において変化を導く起点となっている。金日成総合大学をはじめ平壌の通りには、このスローガンが目につく。金正日時代に平壌で目につくスローガンは「進むべき道は厳しくとも、笑いながら行こう」だった。北朝鮮が目指す方向が確実に変わった。2013年3月30日、「政府、政党、団体特別声明」を通じても、北朝鮮は「金正恩時代にはすべてのものが違うということをまず知るべきだ」と言及している。

金正恩時代・北朝鮮の変化の出発点

 変化の出発点は2009年だった。新たな後継者の登場と2回目の核実験の成功は、北朝鮮の情勢認識と路線、対内・対外的な政策の方向性を根本的に変えてしまった。

 まず、金正恩が後継者として決まり、後継体制を樹立。続いて最高指導者として登場する過程は、内部的に「熾烈な討論」を経て新たな国家目標(アジェンダ)を確定していく過程だった。また、金日成が死亡してから続けられてきた「非常運営体制」を終え、党と軍の運営を正常化させていく過程でもあった。さらには、新たな指導者のリーダーシップを形成していく過程でもあった。1970年代に金総書記が後継者として登場した後にも、北朝鮮社会は政治や経済、社会的にかなりの変化を経験したことがある。しかし、すでに後継体制への履行は経験済みであり、最高指導者の死亡を予想した「有故(有事)対応計画」が考えられたが、外部の「期待」とは違い北朝鮮内部に大きな混乱は発生しなかった。金正恩は「権力分散で特定人が摂政役になる」「後見人が出てくる」、あるいは「指導力が弱く集団指導体制に進む」という外部の予想を払拭させ、唯一領導体制を確立、強力なリーダーシップを形成した。

 実際に、2011年12月に金正日が死亡してから100日間の服喪期間を経た後、北朝鮮は迅速に金正恩体制への権力継承を終えた。12月29日に人民軍最高司令官に推戴された金正恩は、党中央軍事委員会副委員長から翌12年4月11日の第4回党代表者会を経て第1書記兼政治局常務委員、党中央軍事委員長に推戴され、2日後には最高人民会議12期5回会議で国防委員会第1委員長に選出されている。金総書記は第4回党代表者会で「永遠の総書記」として推戴され、続いて最高人民会議では「永遠なる国防委員長」に推戴された。これによって、北朝鮮には2人(金日成、金正日)の「永遠なる国家首班」が存在し、党と国家の実質的な首班は党第1書記と国防委員会第1委員長が担うという党と国家の枠が用意された。そして12年4月15日、金第1委員長は金日成主席生誕100周年となる誕生日(太陽節)を迎え、金日成広場で開かれた軍閲兵式で初めての公開演説を行い、「金正恩時代」の公式開幕を国内外に宣言した。

 党代表者会から閲兵式までの一連の政治的行事は、北朝鮮第2世代の支援の下、3~4世代が権力の核心勢力として浮上していることを象徴的に示している。これは、単純な世代交代のみを意味するのではなく、北朝鮮の対内外路線に新たな変化が始まったことを示唆している。

金正恩第1委員長による破格の行動

 金日成主席から金正日総書記への権力継承過程を振り返ると、北朝鮮における最高指導者のリーダーシップは「制度的リーダーシップ」と「人格的リーダーシップ」の結合で完成される。これを基準とすると、金正恩は2012年4月の党・政・軍の最高職責をすべて継承したことで制度的リーダーシップを確立し、人格的リーダーシップの形成段階に突入したとみることができる。

 金正恩は社会の各分野の「根本的転換」のために「民生行動」を強化し、労働党の唯一領導体制を強化し、幹部の官僚化、貴族化を叱咤し、世界的流れに合う社会変化を推進していったと評価される。特に、金正日時代とはまったく違うリーダーシップを一つずつ見せている。内部の問題点を赤裸々に指摘した文書を発表し、幹部の惰性を叱咤した内容をメディアに公開することもある。2012年4月6日、金正恩が党中央委員会責任幹部らと行った談話では、「民心を離れた一心団結はあり得ない」と指摘、「民心を軽く考えたり無視する現象とは強力な闘争を繰り広げるべきだ」と強調した。北朝鮮住民の間では、かつての金日成のリーダーシップを連想させるという反応が出ている。

 サービス開始から3年半で200万台が普及した携帯電話を基盤とする「通信革命」や既存の国営商店網、総合市場と別途に大型スーパーや専門商店を建設することによる「流通革命」などは、金正日時代とはまったく違う金正恩時代に可能な政策だと評価できる。

「核の脅威を受けていた時代は終わった」

 次に、北朝鮮は2009年5月に実施した2回目の核実験によって、事実上の核保有国の地位を獲得した。これにより、外部からの核の脅威から抜け出せたと判断している。米国や日本、韓国の軍事費は北朝鮮に比べて数百、数十倍に達するが、核兵器を持ったためすべてが泡と消えたというのが北朝鮮の認識だ。特に北朝鮮は、1990年代に入ってすべての人的、物的、知的資源を社会主義を守るために投資したが、核を保有したことですべての力量を経済全般、人民生活の発展に回すことができると結論づけた。このような認識の延長線上には、北朝鮮は13年3月31日の党中央委員会全員会議で「経済建設と核武力建設の並進路線」を採択し、「米国が朝鮮を核で脅かす時代は永遠に終わった」と公式に宣言した。

 「いまや、われわれには強力な核抑止力があり、どのような強敵も打倒できる軍事力を持つようになった。経済強国建設と人民生活向上のための闘争も、自分が思う通りに行えるようになった。米帝がわれわれを核で脅かし、経済建設にブレーキをかける時代は過ぎ去った」(「労働新聞」2013年4月1日付)

 「経済建設と核兵器建設の並進路線」は、2003年に金正日が「国防工業を優先的に発展させながら、軽工業と農業を同時に発展させる先軍時代の経済建設路線」を提示してから10年ぶりに北朝鮮が公式的に打ち出した金正恩時代の新たな戦略的路線だ。核保有国としての地位を内外に鮮明に打ち出すために、核の小型化・強力化、多種化を今後も続けながら国防費の負担を減らし、経済建設に注力するという構想だ。

米国と韓国の「急変事態論」

 韓国をはじめ世界の北朝鮮専門家は、北朝鮮における経済的厳しさを根拠して金正恩体制の安定性に留保的な態度を示したり、あるいは「改革・開放をしないかぎり北朝鮮は当面の課題を解決できない」との予測を示す。2012年12月に衛星を発射した後から、最近に至っても止むことのない北朝鮮の対外強硬政策をも、金正恩のリーダーシップの不安定さと関連させることもある。今でも、「北朝鮮崩壊論」「北朝鮮体制急変事態論」「北朝鮮の変化不可避論」に陥っている。

 さらに深刻な問題は、韓国と米国の政策担当者も同じような考えを持っているということだ。実際に、李明博政権は北朝鮮政権が3年以内に崩壊するという幻想を持って対北政策を行ってきた。当然、対話よりは圧力が優先順位となった。平和協定を議論しようとするオバマ政権の足下をつかみ、北朝鮮に核を放棄せ、改革・開放の道に出てこいと要求した。韓国と米国は2011年から、「キー・リゾルブ」米韓軍事演習で北朝鮮の急変事態を想定した米軍主導の訓練を強化した。

 しかし、「北朝鮮崩壊論」「急変事態論」は1994年に金日成が死亡してから20年の間、常に繰り返されてきた虚像に過ぎない。金大中・盧武鉉政権時代に何回も「北朝鮮は崩壊しうる」という報告があった、当時は崩壊はしないと判断された。ところが李明博政権は「急変事態論」の根拠として、北朝鮮の経済危機を取り上げた。だが、南北経済協力が中断した李明博政権時代には、北朝鮮の経済が沈滞したという明確な根拠は一つもない。たとえば、北朝鮮の食糧価格が市場の需給状況によって上がり下がりしているというが、李明博政権は食糧価格が上がった状況だけに注目した。2012年には、黄海道で餓死者が発生したという根拠のない報道まで出てきた。

 李明博政権の政策担当者、国内外の保守的人士が信念のように話す「急変事態」は、一言で言えば「異端宗教の時限付終末論」のようなものだ。誤った北朝鮮認識と判断、正確にいえば「急変事態」という色眼鏡をつけたまま「主観的な期待感」に基づいた李明博政権とオバマ政権の北朝鮮政策と圧力、無視政策が招いた否定的結果はあまりにも大きい。

 北朝鮮はこの間、2回の核実験と長距離ミサイル実験で、事実上の「核保有国」の地位を得た。米国まで到達できるとされる大陸間弾道ミサイルを保有することにもなった。まともな南北対話は一度も行うことができなかった。金大中・盧武鉉政権当時に活発に行われた南北経済協力は、中朝経済協力に置き換わった。南北和解の象徴だった開城工業団地事業さえも、その命脈が途切れようとしている。最近、北朝鮮は「朝鮮半島で平和でも戦争でもない状態は終わった。北南の間で提起されるすべての問題は戦時に準じて処理されるだろう」と明らかにした。「全面戦争、核戦争」が公然と取り上げられている。60年間維持してきた「停戦体制」が事実上、崩れたことになる。この5年間、「時限付終末論」に頼り切り、現実を見ようとせず、北朝鮮の核開発を放置した結果だ。

変化は北朝鮮の選択にまかせよ

 「北朝鮮変化不可避論」も、基本的な認識に問題がある。金大中、盧武鉉政権の10年間、韓国政府は北朝鮮が改革・開放の道に進めるようにすべきなら太陽政策を必要としていた。南北の相互尊重と和解協力を標榜したが、基本的に交流と経済協力を通じて北朝鮮の変化を誘導するというものだった。しかし、北朝鮮は南北関係と対外関係を改善するためには積極的だったが、市場経済の導入ではない実利ある社会主義を追求した。保守陣営では太陽政策が北朝鮮を市場経済への変化を誘導できなかったから失敗した政策だと批判し、李明博政権は圧力で北朝鮮を変化させようとした。

 われわれの考え通りに北朝鮮の変化を誘導し、最終的に吸収統一するという点では、歴代政権の北朝鮮政策は根本的に差はない。朴槿恵政権は「朝鮮半島信頼プロセス」を打ち出し、太陽でも圧力でもない、二分法的なアプローチから抜け出した北朝鮮政策で北朝鮮の変化を誘導するとアピールしている。北朝鮮の変化を前提にしているという側面で、これまでの政権と違いはない。

 だが、北朝鮮は若い最高指導者の登場とともに、「目は世界に向けよ」と自ら変化を模索しており、「核保有」を前提とした対外政策を駆使している。昨年、北朝鮮を訪問した国内外の訪問者は誰もが「北朝鮮では2000年以降の10年間の変化よりも大きな変化があるようだ」と伝えている。北朝鮮が東アジアで示す強硬姿勢も、このような変化に基づいたものだ。

 われわれが根本的に思考を変えるべき状況に直面している。中国・北京大の金景一教授は、この点をきちんと指摘している。

 「北朝鮮を変えさせるならば、南北関係は実際に対等な関係ではなくなった。自分であれ相手であれ、強者と弱者に与える構図でなければ、圧力で変化を追求する構図にならざるをえない。中国は他律ではない自律によって変化を成し遂げた。北朝鮮も同じだ。北朝鮮の変化は北朝鮮の自律に任せるべきだ。韓国の役割は変化の環境と条件をつくってあげることだ。北朝鮮を外から変化させるようとすればするほど変化しようとはしない。それならば、北朝鮮は変化できない国か。そうでもない。北朝鮮は変化しており、また変化せざるを得ない。問題は、どのような変化を望むかだ」

 北朝鮮的に表現すれば、いまや北朝鮮の「先核廃棄、後改革開放」を前提とする対話は永遠に終わった。この4カ月間の朝鮮半島における戦争の危機は、このことをよく示している。北朝鮮は北朝鮮への圧力が続く場合、3回目どころか4回目、5回目の核実験と長距離ミサイル実験を行うようになるだろう。これは米国の核攻撃に反撃できる核の力を持つということを意味する。このような状況は、仮定ではなく現実だ。このような現実を仕方なく認める中で、北朝鮮の変化をきちんと把握し、北朝鮮政策を組み立てるべきだ。

 われわれの基本的な目標は何か。朝鮮半島を非核化地域にし、安定的な平和体制を構築することにある。戦争ではなく、対話と協力を通じ、統一を成し遂げることにある。ところが北朝鮮は、「非核化会談は永遠に終わった」と宣言した。相互尊重と信頼のない対話は必要ない、という主張だ。われわれはどのような選択をすべきか。戦争という手段を排除すれば、残りの解法は「過程としての朝鮮半島非核化」と「過程としての統一」(事実上の統一)を追求せざるを得ないのではないか。北朝鮮自ら追求している変化の幅が広がるように、国際環境と内部の条件をつくってあげることだ。北朝鮮が朝鮮半島非核化に関する会談に再び出て来られるように、平和協定の締結に積極的に出る道のほかに解法は見えてこない。

 北朝鮮は、金正恩時代は金正日時代と違うと主張する。それならば、まず何が違うのかを客観的に見ることが出発点となる。2009年以降、何が変化し、今後どのように変化しようとしているのかを知ってこそ、適切な対応策を探すことができる。

(2013年5月6日)


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