ニュースリリース|北朝鮮 Live!| 2017年06月01日(木)
「日本政府に言いたいのは、朝鮮と日本が今後も近い国になることを望むということだけです。近い国になれば、私も故郷へ行き、両親のお墓にお参りすることもでき、兄弟と会うこともできるでしょう」
北朝鮮東部・咸興市に住む残留日本人女性・李由金(リ・ユグム)さんが4月19日、こう述べた。咸鏡南道には日本の敗戦後から住んでいる残留日本人は24人、帰国する夫とともに日本人妻308人が住んでいる。
大部分が老衰などですでに死亡し、現在は39人。そのうち、戦前から住んでいるのは李さん一人だけであり、残り38人は戦後に北朝鮮に来た日本人妻だ。
彼らは現在、「ムジゲ(虹)会」を結成し、咸興市に事務所を置いている。李さんは同会の会長だ。彼らはここで、互いの生活で生じる問題について話し合ったり、日朝関係の改善のために自分ができる範囲で多くの活動を繰り広げている。
李さんは4月19日、記者とのインタビューで次のように述べた。
李さんの日本名は荒井瑠璃子といい、1933年1月15日生まれ。現在は息子と孫夫婦、ひ孫とともに住んでいる。幼いときから両親とソウルに住んでおり、6人兄弟。戦前に両親と弟とともにソウルに住んでおり、兄と姉は日本のおばあさんの家で生活していたという。
1944年に北朝鮮北部・会寧市に移った。父の名前は荒井ヨシノリといい、会寧駅に勤務した。44年6月か7月ごろに、父は徴兵で軍隊に行った。そのとき、父が会寧駅に見送りに行った私と弟・ヒデオに、「ここで離れたら再び家に戻ることはできないようだ」といい、自分たちをしっかりと抱きしめてくれた記憶がある。父はそのまま汽車に乗ったが、中国に行った後、その後日本に戻った。
1945年8月15日直前に、父の職場で勤務していた朝鮮人が来て、義理の母親に南側に行こうと行って荷車に荷物を載せて会寧を離れた。南側に行く途中、この朝鮮人の家に泊まった。その家のおばあさんが、「今は夏服しか必要がないから、服よりは食べ物をたくさんもって行きなさい」とコメをくれたという。
持ちきれないほどのコメを持ってその家を離れ、鉄路に沿って進んでいった。途中の駅で汽車に乗った。そのとき、咸興市の幹部1人が日本人通訳を通じて、金日成将軍(当時)の言葉を伝えてくれた。それは、金日成将軍は日本の政治が悪かっただけで、日本人には罪がない、だから彼らが故郷に戻れるようにしろということだった。その幹部は、今は汽車が故障で動かないので、動くまでここでとどまれるように便宜を図ると言った。
そのため、戦前に市役所横にあった旅館で数日過ごした。そのとき、一緒に来ていた異母弟2人のうち1人が死んでしまった。旅館前は大通りであり、周辺には埋めることができるところがなかったが、日本人と思われる死体を乗せようとする人が見えた。その人について行けば弟を埋めることができると思い、そのまま小さな丘についた。そこには死体を埋めるために大きな穴があった。そこに弟を埋めた。
埋めた場所の近くにリンゴ園があった。母はリンゴを2つの袋に入れて、私とヒデオにそれぞれ1袋ずつ持たせてくれた。これを売って旅費にせよということだった。市場に出て売ろうとしたが、市場はとても人が多く、弟と別れてしまった。日が暮れ始めたが、私は弟を探すことができなかった。どうしていいかわからず、ただ泣いていたが、あるおじさんがなぜ泣くのかと聞いてきた。両親がいないため、自分の家に行こうと言ってくれた。
その家に子どもが二人いたが、母親も私を喜んで迎え入れてくれて、夕食をごちそうになった。そのおじさんは私に、朝鮮に住んで、その後統一されれば故郷まで一緒に行こうと言ってくれた。
その家を朝に出て、劇場の横にある事務所のまで露天商と一緒にいると、弟と再開した。弟は昨晩はどこで過ごしたのかと聞きながら、一緒にまた行こうと言った。私はそれはできないと言った。すると、弟は私をおいて出て行った。それが弟の姿をみた最後となった。
おじさんと再び会い、それからはその家で私も住むようになった。ところが、おじさんが自分の故郷に戻ることになったと、私は咸興に残すと言った。その家をしばしば訪れていたおばあさんには娘がおらず、自分と一緒に住まないかと言った。結局、それから結婚するまで、その家で生活した。私の夫は咸興駅で働いた。
李さんはソウル生まれだ。両親は熊本県出身だ。現在、日本にいる弟(実母が日本に連れて行った弟)と手紙のやりとりをしている。実母はソウルにいるときに病気になり、当時3歳だった弟を連れて熊本に帰った。私は13歳から咸興で生活した。日本に行きたいが、どうやって義理を果たせばいいのか。もちろん、両親の墓参りをしたい思いもある。しかし、行きたいときに行けるわけでもなく……。
咸鏡南道に住む日本人妻と、今でも定期的に会っている。