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「科学技術強国」が金正恩時代の北朝鮮を読むキーワード

ニュースリリース|トピックス| 2016年07月02日(土)

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(ピョン・ハクムン韓国産業技術大学外来教授)

 北朝鮮といえば、三代世襲や核実験、ミサイル開発、経済難、粛清、脱北者などが関連キーワードだろう。となると、北朝鮮と「科学技術」は合わない組み合わせだろう。朝鮮労働党第7回大会で北朝鮮が「科学技術強国」に何回も言及したにもかかわらず、北朝鮮専門家の大多数がこれに注目しなかったことも当然のことかもしれない。さらには、「世界先端水準の科学技術」と言っても虚構に過ぎないと感じるかもしれない。

 筆者もまた、北朝鮮が科学技術の全分野を世界最高レベルに引き上げるということが、はたして現実的な目標なのかは懐疑的だ。しかし、北朝鮮が少なくとも科学技術に基づいた経済発展を考え始めたことは、すでに以前からのことだ。本稿では、「科学技術強国」と関連した今回の党大会の内容と、このような内容が出てくるまで北朝鮮の科学技術政策の変化を歴史的に振り返ろうと思う。

党大会で提示された「科学技術強国」像とその実現方案

 金正恩の党中央委員会総括報告や党大会決定書によれば、科学技術強国は「国の全般的な科学技術が世界先端レベルとなる国、科学技術の主導的な役割によって経済と国防、文化をはじめとするすべての部門が急速に発展する国」を意味する。

 すなわち、北朝鮮が言う科学技術強国は、情報技術(IT)やナノ技術(NT)、生物工学(BT)、核技術など先端分野はもちろん、機械工学や金属工学、熱工学、材料工学などの工学における主要部門、数学や物理学、化学、生物学など基礎科学に至るまで、すべての科学技術分野の研究成果と世界的な水準に至る国、ということだ。また、先端技術の集合体である実用衛星をより多く制作・発射し、宇宙強国建設に寄与できる宇宙科学技術を持つ国になるということだ。

 また、科学技術強国は経済発展において科学技術が「機関車」の役割を果たす国、エネルギーや鉄鋼材、化学製品、食糧問題など経済強国建設に必ずともなう問題を解決し、経済全般を現代化・情報化を進めるために科学技術が主導的な役割を果たす国だ。

 科学技術を発展させ、原子力や親環境エネルギーなどを開発してエネルギー問題を解決し、「主体鉄」(輸入燃料の使用を最少化した製鉄法)生産技術など、北朝鮮の実状に合う技術を開発し、輸入に依存する原料や資材、設備を国産化し、農業生産の科学化・工業化と毛工業部門の現代化を実現するということだ。

 北朝鮮は今回の党大会で科学技術強国を実現するための方案についても、詳細に言及した。何よりも北朝鮮は科学技術人材の養成、「全民科学技術人材化」を最も重要な課題として提示した。そして、これを実現するために中等学校の科学技術教育を強化し、大学の学制改編と教育水準を高め、全国的な科学技術普及網を拡充し、工場における大学(工場大学)や農場大学、および遠隔教育など「働きながら学べる教育プログラム」を発展させるなど、教育体制の整備・強化を継続して推進することにした。特に、金日成総合大学など主要大学を化学研究の中心基地、また学術交流の拠点とすることで、世界的な水準に育てることを強調した。

 これとともに、北朝鮮は国家レベルでの科学技術の指導・管理体制を確立して研究開発の分散と重複を防止し、先端突破計画と先端技術の産業化などの戦略目標を実現し、最新の科学技術に基づいた経済構造の再編を行うことなどを体系的・効率的に進めることにした。

 特に研究開発の重複を避け、効率を高めるために、科学院のような専門科学研究機関は核心的な科学技術の研究を、内閣の各省や工場、企業所は応用技術の研究を、大学は基礎科学の研究と先端科学技術の開発を担当するようになるなど、機関別の役割分担を明確にした。

 党大会では、科学技術に対する国家的投資の拡大も強調された。国家予算において科学技術発展のための事業費を徐々に増やし、地方予算と工場や企業所の企業所基金も、該当単位の科学技術発展に最大限活用することにした。また研究機関と大学には先端技術製品の生産と販売を拡大し、研究開発資金を確保するようにした。

 以上、科学技術強国に関連した内容は、党大会開催になって突然出てきたものではない。少なくとも金正恩政権以降に推進されてきた政策が集大成されたものであり、さらには1950年代後半から北朝鮮の科学技術発展の方向性と経験が積み重なった結果でもある。

1960年代初頭の金日成「科学技術を発展させれば主体的発展は可能」

 よく知られている通り、この数十年の北朝鮮政権において「主体」(自立、自主性)は国家運営の核心原理であり、彼らが達成しようとする最終目標だった。金正恩が標榜した「自彊力第一主義」も、この延長線にあるものだ。注目すべき点は、北朝鮮が1960年代から主体路線を本格的に展開できた背景には当時の北朝鮮の科学技術の成果があり、それ以降にも継続して科学技術の発展を通じて自立のための物的基盤を強化しようとしたという事実だ。そして、これは1950年代後半の経験に起因する。

 北朝鮮経済は1950年代後半から、工業成長率が年間36.6%に達するほどいち早く成長した。特にこれは、北朝鮮の重工業優先政策に反対したソ連がもともと約束していた援助を大幅に減らすという悪条件の中で達成された成果だった。

 当時の北朝鮮経済の高度成長は、よく「千里馬運動」に代表される労力動員の結果だったとされている。しかし、当時の北朝鮮の生産現場では、多様な形の技術革新が生じており、トラクターや貨物車、掘削機などを自主制作するなど、技術的進歩も得ていた。また静観によって生産現場へ派遣された科学者も、合成繊維であるビナロンの工業化に代表されるような多くの研究成果を生みだした。

 当時、ソ連の影響から抜け出して、自立路線を模索中だった北朝鮮指導部は、上記のような成果をみながら「科学技術を発展させればソ連の助けなしに発展できる」と判断した。特に韓国から北朝鮮に入国した科学者である李升基(リ・スンギ)が北朝鮮に豊富な石灰石と無煙炭を利用して大規模な工業化に成功したビナロンは、金日成をして自立路線の可能性を確信させたものとなった。

 これ以降の北朝鮮は、科学技術の発展に基づいた経済成長を持続的に試みた。要約すれば、北朝鮮は1961年の第1次7カ年計画、71年の6カ年計画によって「科学技術発展に基づいた技術革命」を計画・実現の核心課題とした。また、北朝鮮は78年の第2次7カ年計画以降、最近まで「人民経済の主体化、現代化、科学化」、すなわち「現代科学技術に基づいた自立経済の強化」を推進してきた。

 したがって、今回の党大会で金正恩が自彊力第一主義を強調することで科学技術強国、経済強国建設を標榜したことは、1960年以降、金日成が科学技術発展に基づいた自立路線の物的土台を強化することを試みたことと一脈相通じるものだ。

1960~70年代の乱脈さ1:安保危機と国防の科学技術に対する過度な投資

 北朝鮮が1960年代から科学技術に基づいた経済成長を本格的に推進し始めたが、その時から20数年間は、むしろ科学技術に対する投資が萎縮し、科学者は「のけ者扱い」をされ、それだけ科学技術の発展も遅れてしまった。

 これは、何よりも1962年になって北朝鮮の安保環境が大きく悪化したことと関係している。キューバ危機やベトナム戦争、米国の核兵器・ミサイルの韓国配置・増強、日本の軍国主義の復活と再武装への試み、5.16クーデターで韓国に軍事政権が登場、社会主義圏の結束が弱まり、日米韓の三国同盟の現実化可能性の高まりなどが相次いで発生した。これに加え、北朝鮮とソ連の対立が深まり、ソ連が北朝鮮に対する経済・軍事的支援が1950年代後半に続き再び縮小した。

 北朝鮮はこのような状況に対処するため、1962年12月に「経済と国防の並進路線」(並進路線)を採択し、「経済発展において一部の制約を受けても、まず国防力を強化」することを決定した。われわれがよく知っている「四大軍事路線」(前人民の武装化、全地域の要塞化、軍隊の幹部化、軍隊の現代化)も、この時から推進された。

 並進路線が採択されて以降、国防科学技術に対する投資が大きく増え、現在の核やミサイル、長射程砲、潜水艦などの開発において重要な役割を果たしている第2自然科学院の前身である国防科学院もこの時設立された。国防科学院には、設立されてから長期間にわたって、金日成総合大学と金策工業総合大学などトップレベルの大学を卒業した優秀な学生が供給され、予算も既存の科学院よりも優先的に支援された。

 国防科学技術に投資が優先的に回されるようになったのは2000年代後半まで継続し、このため国防と民間の科学技術の水準に格差が生じたのは当然のことだろう。最近の北朝鮮は国防科学技術を源泉にして、民間分野の発展を試みている。

1960~70年代の乱脈さ2:科学界に対する不振と無視が継続

 国防分野と反対に、民間の科学技術に対する投資は大きく縮小され、それだけ民間分野の発展は足踏みするほかなかった。このため、政権と科学界との対立が深まった。政権は科学界に向かって国家の危機的状況で「ひまそうに興味本位の研究ではなく、すぐに経済に役立つ研究をせよと要求し、「自力更生」の姿勢で研究に必要な設備も可能な限り自主的に解決せよと指示した。しかし、科学者らの立場からすれば、これは研究の自律性を剥奪されたものであると同時に、政権が望む研究の実施に必要な支援もきちんと行われていなかった。

 このような状況が1960年代は続き、科学者に対する政権の不信が高まった。当時の北朝鮮政権は科学界に対する支援が足りないことを自ら認めながらも、科学者が国家政策に対する不満だけを高めており、足元でできることもしていないのがより大きな問題だと認識していた。このような不信は、60年代末に科学界に対する強力な検閲へと続き、科学者に対する日常的・組織的な統制がさらに強化された。

 以上のような1960年代の余波によって、70年代、北朝鮮において科学者に対する最も重要な評価基準がその専門性ではなく「思想性」、すなわち金日成の指示と党政策に対する忠実性であり、科学技術発展のための最も重要な課題も、科学者の思想性向上だった。

 つまり、1970年の第5回党大会で北朝鮮は6カ年計画を確定し、その実現のために科学研究を強化すべきと決定した。ところがこの時、科学研究事業を強化するための最も重要な課題は、科学院の研究事業に対する指導・統制の強化であり、科学者・技術者の革命化が挙げられた。

 思想性が強調され、統制が強化され、科学界ではこれ以上、党の政策に対する不満は出てこなかった。しかし、思想性が強調されただけに、専門性がついていかず、科学界の質的レベルはそれほど高まらなかった。

 また、科学者に対する不信に基づいた統制が続き、科学者いじめが蔓延するようになった。すでに決定された科学界に対する投資もきちんと執行されなかったほど深刻なものであり、このため1970年代の民間科学技術の発展に大きなネックとなった。

1980年の第6回党大会:科学者の専門性が強調され、科学技術政策に変化

 1980年10月に開催された労働党第6回大会で、北朝鮮は主体路線の物質的基盤を強化するため「人民経済の主体化、現代化、科学化」が必要であり(今回の第7回大会ではこれに情報化が追加された)、この実現に向けて思想性ではなく専門性に基づいた科学技術発展が必須と強調された。

 第6回党大会以降、北朝鮮は科学技術の専門性を強化するための政策を本格的に模索し、特に1980年代半ばからその変化が生じ始めた。つまり、金日成と金正日は長い間統制と検閲、いじめの対象だった科学者に対する処遇改善を強調し、科学技術の専門的力量を強化するため、それまで「ブルジョア的」とされてタブー視されていた英才教育を始めた。

 これとともに、国民所得の3~4%まで科学技術予算の拡大や対外交流・協力を拡大を行い、科学技術発展3カ年計画を実施(1988~91、91~94年)、自動化・電子工学・ロボット工学など先端科学技術分野の研究機関を新設・拡大するなど、科学技術を発展させるための政策が大幅に強化された。

 北朝鮮が1980年代になって科学技術の専門性を強化するための政策を推進したことは、彼らが60~70年代の科学技術の沈滞の原因を、安保環境の悪化、党政策に対する科学者の消極的な態度にのみ求めなかったことがわかる。彼らはこの時期の科学技術政策が民間の科学技術に対する投資の減少や、思想性を強調することで専門性が低下したなどの問題点を抱えていることを認めたことになる。

 しかし、上記のような科学技術政策の変化は、1980年代末以降の東欧圏とソ連の崩壊、94年の金日成死亡、95~97年の経済難などが続き、10年ほど中断された。北朝鮮版「失われた10年」となった。

1998以降の金正日の科学技術重視政策

 1980年代、科学技術政策の変化をリードした金正日は98年に「科学技術重視政策」を標榜し、10年近く中断されていた政策を再び推進した。これは、彼が国家目標として提示した「社会主義強盛大国」建設と密接な関連があった。

 社会主義強盛大国は思想・軍事・経済強国を意味するが、当時の金正日は思想と軍事の強国はすでに達成され、経済強国だけ実現すれば強盛大国が完成すると主張した。そして、科学技術を経済強国建設の核心的な方法として強調した。

 北朝鮮は1998年に「第1次科学技術発展5カ年計画」を始めた。この計画によって北朝鮮は電力や石炭、金属、農業など伝統的に重視してきた部門だけではなく、ITやバイオテクノロジー、ナノテクノロジー、電子工学、新素材など先端分野の発展も積極的に目指すようになった。科学技術発展5カ年計画は、現在まで途切れることなく実施されているが、計画が更新されるたびに先端分野の比重が高まってきた。

 国家予算における科学技術分野の比重も拡大され、2004年には前年比60%増となったこともある。北朝鮮はこのように拡大させてきた予算に基づいて、科学技術の人材養成、科学研究機関の強化、科学者優待政策の拡大などを1980年代よりもさらに積極的に行った。

2009年から国防科学技術の民需転換を本格的に実施

 金正日による科学技術重視政策は、2009年4月に「光明星2号」を発射してから新たな様相を呈すようになった。長い間人的・物的資源を優先的に支援され、民間分野に比べその水準が相当高まっていた国防科学技術の民需転換(スピンオフ)を積極的に推進し始めたためだ。北朝鮮が「先端水準の科学技術」と「知識経済」を強調しはじめたことも、この時からだ。

 スピンオフ戦略は自らの体制維持を可能にさせている水準の核と長距離ロケット技術を確保したという判断に基づいたものと思われる。すなわち、1960年代初頭の安保危機から半世紀近く維持されてきた体制生存への脅威から脱皮したため、これまで国防分野に過度に集中していた資源と高いレベルの国防科学技術を民間分野に回すことで、民間の科学技術と経済を短期間に発展させようとするものだ。北朝鮮のスピンオフ戦略は、金正恩政権になった2013年3月、「経済と核武力の並進路線」が採択されてからさらに強化され、現在まで続いている。

科学技術重視政策の継承と発展を目指す金正恩

 今回の第7回党大会で北朝鮮があきらかにした「科学技術強国→知識経済強国」は、金正日の路線と政策を継承したものと言える。さらには、金正日の科学技術重視政策が1960~70年代の科学技術政策に内在した限界と誤りを克服し、科学技術の発展に基づいた経済成長を実現するためのものだったことを想起すれば、金正恩が提示した科学技術強国ビジョンは、数十年にわたる経験の模索の末のものだったと言えるだろう。

 実際に、金正恩政権になって以降、北朝鮮は金正日時代よりさらに早く、かつ果敢に科学技術の発展、科学技術に基づいた産業再編を試みている。たとえば、高等教育と研究水準を高めるため、金日成総合大学と金策工業総合大学、高麗成均館大学など主要大学と地域の拠点大学の外形的拡大と中味の充実を数十年にわたって推進している。2012年には、40年ぶりに初等中等11年義務教育制を12年義務教育制に改編し、科学技術教育の比重を大幅に高めた。

 科学院生物工学分院の拡大、自然エネルギー研究所の新設、国家ナノ技術局など、科学機関も継続して拡充されてきた。科学者の処遇改善措置も拡大し、多数の科学者住宅と科学者向け休養所などを相次いで建設した。2012~15年の科学技術予算は、年平均6.55%(同期間の国家予算増加率は年平均5.2%)の増額とするなど、科学技術に対する投資も絶えず拡大させた。

 金正恩の北朝鮮は、スピンオフや知識経済など金正日の晩年から現れてきた目標を現実化しようとする試みも行ってきた。たとえば、軍需工場における民間の生活必需品生産の拡大、民間工場の現代化に軍需部門の技術者を投入するなど、スピンオフのための具体的な方式を整えてきた。

 また、無人化や自動化、IT化、親環境エネルギーなど最新の科学技術に基づいた生産現場の現代化を通じて、知識経済を実現仕様としている。これに加え、北朝鮮は1970年代末から北朝鮮の経済目標だった人民経済の主体化、現代化、科学化に情報化を追加した。これにより、知識経済建設の方向性をさらに明確にしている。

いまこそ北朝鮮の科学技術に注目すべき

 北朝鮮が今回の第7回党大会で明らかにした科学技術強国構想は、簡単に実現できる目標ではない。なによりも、科学技術の画期的な発展には莫大な人的、物的資源が必要だが、金正恩自ら言及したように、数十年にわたる「技術経済的孤立」が続いている状況で、これを順調に確保することは簡単ではないだろう。また、北朝鮮が科学技術強国建設の源泉と見なしている国防科学技術の民需転換もそう簡単ではない。そのため、円滑に進まない可能性も高い。

 ただ、これまで見てきたように、科学技術強国構想は数十年にわたる北朝鮮の経験と模索が集結したものであり、実際に金正恩政権もこの数年間でこれを積極的に推進してきた。この過程で、生産現場の現代化や大学・研究所の力量強化、科学技術基盤の拡充などにおいてある程度の成果を得たものと思われる。したがって、金正恩政権が今後も科学技術の発展に注力するのは間違いない。

 2016年4月末から5月上旬、3人のノーベル賞受賞者とともに北朝鮮を訪れたリヒテンシュタインのアルフレッド皇子も訪朝後の記者会見で、北朝鮮が科学技術に多くの投資を行い、自らのビジョンを実現するため真摯に努力していると明らかにした。

 そのため、今後の北朝鮮社会を理解し、変化を予想するためには、彼らが科学技術強国を実現するためどのような動きを見せており、その結果はどのようなものになるかに注目すべきだろう。
(韓国『統一ニュース』2016年5月24日)


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