昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く

3 非常体制から正常体制へ転換する

鄭昌鉉の金正恩時代の北朝鮮を読み解く| 2016年06月05日(日)

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 北朝鮮は2010年9月28日に朝鮮労働党代表者会を開き、後継者・金正恩を労働党中央軍事委員会副委員長に選出した。同様に政治局常務委員、政治局委員ならびに候補委員、党秘書局、専門部署責任者、党中央委員・候補委員を新たに任命する大々的な人事を行った。党代表者会は1958年、66年に続き3回目だったが、80年の第6回党大会以降、30年ぶりに開かれる中央レベルの党会議だった。北朝鮮は3回目の党代表者会の開催について、「党を永遠に金日成同士の党として強化・発展させ、党の領導的権威をあらゆる面で高めるという重大な契機」となったと評価した。

 北朝鮮は党優位の国家だ。北朝鮮で労働党は「人民を率いる党であり革命の参謀部」と規定されている。過去、社会主義国家で党が「革命の前衛」として絶対的な権威を持っていたように、労働党もまた権力の源泉であり中核であり、すべての国家機関と社会団体を指導する革新的な役割を遂行する。北朝鮮の人口は2400万。その10%を超える約300万人(推定)が労働党党員として活動する。それでも、北朝鮮は30年間も党大会を開くことができず、党中央委員会全員会議も1993年以降、開催された事実が公になっていない。

第6回党大会以降、30年ぶりに開かれた党代表者会

 朝鮮労働党規約第3章21条によれば、党の最高機関は「党大会」として規定されており、会期は4年に1回。党中央委員会が大会招集期日と議定を3カ月前に発表した後に総集されるように決められている。しかし、北朝鮮は1961年第4回党大会以降、不規則的に党大会を開催しており、さらに80年の第6回大会を以降は開催されなかった。

 北朝鮮は30年間、党大会を開けなかった理由について、何ら公式的な説明を出していない。ただ、金日成と金正日の言及から、その理由をうかがうことができる。金日成は第6回党大会を開いて3年後となる1983年6月16、17日に開かれた党中央委員会第6回第7次全員会議の結論で、「軽工業発展に大きな力を植え付け、住民の消費品生産において一大転換をもたらすべきです。そうしてこそ、近い数年の間に住民生活をはるかに高め、党第7回大会を行うようにすべきです」と発言している。

 金日成は1983年6月30日、7月1日、5日の3回にわたって開かれた「ペルーアメリカ人民革命同盟代表団」との会談でも、「われわれは1985年まで社会主義経済建設の10大展望目標のうち、重要な高地を基本的に占領し、86年にわが党第7回大会を開こうとしています」と言及している。

 金正日も1984年2月16日の党中央委員会責任幹部協議会で行った演説「人民生活をさらに高めることについて」において、「首領様は最近でも党中央委員会政治局会議をはじめとするいくつかの会議で、人民生活を一段階高め、党第7回大会行うべきだと教示されました。人民生活を一段階さらに高め、党第7回大会を開こうとすることは、われわれ党の確固たる決心です」と強調している。

 すなわち、北朝鮮は「社会主義経済建設10大展望目標」を1988年までに完遂するという計画を立て、85年まで10大展望目標のうち重要な部門の目標を達成した後、第7回党大会を86年に開催する予定だった。

 しかし、北朝鮮は1980年代半ばの第2次7カ年計画の目標を達成できず、2年間の調整期(85~86年)を経た。特に第3次7カ年計画(87~93年)は、「われわれの経済は発展の速度と均衡を失い」「本来予見した通りに遂行できなくなった」とし、北朝鮮当局が目標達成に「失敗した」ことを初めて認めるほど難航した。さらには、北朝鮮は3年間の緩衝期(94~96年)を設定したにもかかわらず、自然災害が相次いだことも重なり、北朝鮮政権発足以来最悪の経済危機を迎え、「苦難の行軍」「社会主義強行軍」の道を歩まなければならなかった。党大会を開く経済与件がまったくなかったということだ。

 実際に、北朝鮮の社会主義経済は、1990年代にソ連・東欧社会主義体制の崩壊、95年の大洪水などで完全に崩壊し、95年から5年間で約60万人の住民が飢餓と栄養失調で死亡する最悪の状況を迎えた(2008年北朝鮮人口センサスを参照)。06年12月7日、金正日も党幹部を叱責し、当時の状況を正直に打ち明けたことがある。

 「食糧を求めようとさまよう人たちがどこにでもあふれており、とても胸が痛いことが起きているが、道、市、郡の党責任秘書をはじめ党員はそこに顔を向けようとしていない。…今日の食糧問題で無政府状態になっており、政務員をはじめ行政経済機関関係者に責任があるが、党員全員にも問題がある。…いま、人民軍に食糧をきちんと供給できていない。人民は電気事情が悪いのでテレビもきちんと見ることができず、石炭事情も緊張状態だ」。

体制危機と先軍政治

 1990年代半ばの「苦難の行軍」時期、北朝鮮は計画経済でありながらも、翌年の財政計画をきちんと立案できないほどに困難な状況だった。98年に「強盛大国建設」という国家的目標を提示したが、10年後の2007年になってようやく「強盛大国の具体的目標と期限」を発表できた。それさえも、強盛大国の完成ではなく、2012年までを「強盛大国の大門を開く年」と設定しただけだった。

 このような最悪の経済条件において、北朝鮮は党大会を開くどころか党、政、軍を非常体制で運営するほかなかった。金正日は1994年11月1日、「社会主義は科学だ」という論文を発表して「われわれ式社会主義」を標榜、社会主義体制を固守するという意志を表した。そして95年1月1日には、金日成主席死後、単独で行った最初の軍部隊視察場所として、万景台にある平壌第214高射砲女性中隊を訪問して先軍功労の先軍政治を開始した。外部の改革・開放要求、北朝鮮崩壊論などを一蹴し、体制危機を先軍政治によって全面突破するという意図だった。

 1999年、北朝鮮は十数年ぶりに経済がプラス成長となり、新たな経済計画を提示する必要が生まれると、党大会の招集を考えた。2000年6月の南北首脳会談時、金正日は金大中大統領が「いつごろ党大会を開く予定か」という質問に、「(2000年)秋ごろを考えている」と回答したが、同年8月に訪朝した南側メディア社長団との対話で、「準備していた党大会が南北情勢の急変して、すべてのことを再準備することになった」と述べたことがある。

 金正日のこの発言は、2000年秋、朝鮮労働党創建55周年に合わせて党大会を開催する予定だったが、南北首脳会談と米朝対話の急進展で延期されたことを示唆している。しかし、延期された党大会はその後も長い間開くことができなかった。ブッシュ政権の登場とイラク戦争、いわゆる「第2次核危機」で安全保障問題が主要課題として登場したためだった。

 その結果、党政治局会議、党中央委員会、党中央軍事委員会は継続してきちんと稼働することができず、秘書局も一貫性を持って運営できなかった。金日成死亡後、3年間の「遺訓統治」機関を経て、金正日が労働党総秘書に推戴され、翌年権限が強化された国防委員長に再選出されて名実ともに金正日時代が幕開けしたが、北朝鮮は経済、安保など体制の危機に縛られ、社会主義体制を固守するための非常体制へと動かざるを得なかったのである。

 これらの点で、2009年は新たな転換への出発点となった。新たな後継者の登場による後継体制構築の必要性、2回目の核実験による安保危機の解消、中国やロシアとの協力強化による経済安定などが主要変数だった。特に北朝鮮は、後継体制の構築についてだらだらと行われていた党、政、軍の運営の正常化に打って出たが、それは金日成時代の「集団主義的協議構造」を復元する過程でもあった。

 このため、北朝鮮は2009年2月から国防委員会→最高人民会議→内閣→労働党の順で金正恩体制を念頭に置いた組織改編を行い、運営を正常化した。09年2月に北朝鮮は金英春国防委員会副委員長を人民武力部長に任命し、李英鎬平壌防衛司令官を総参謀長に起用。続いて、呉克烈労働党作戦部長を国防委員会副委員長に起用した。そして国防委員会のメンバーを大幅に補強して、副委員長2人から3人に、委員を4人から8人とそれぞれ増やした。11人の副委員長と国防委員には、軍関係者と軍内部の党組織を管轄する者が網羅されている。軍事、軍需、党組織など人民軍の主要部署責任者がすべて国防委員会に配置されたことで、国防委員会が名実ともに「国防事業全般を指導管理する」国家機関となった。

党・政・軍の組織改編

 国防委員会の改編を追えた北朝鮮は、次に最高人民会議と内閣を改編した。2009年3月8日に北朝鮮は、6年ぶりに第12期最高人民会議代議員選挙を行い、新たに687人の代議員を選出した。これにより第12期代議員のうち約45%が替わる世代交代が行われた。そして1年後となる2010年6月7日、北朝鮮は最高人民会議第12期3回会議を開き、新総理に崔永林を任命するなど、内閣に対する大々的な人事を行った。4月に最高人民会議が開かれてわずか2カ月後のことだった。

 内閣人事で目を惹く変化は、総理交代と副総理の大幅補強である。内閣人事では崔永林、チョン・ハチョルなど金日成書記室の責任書記出身がそれぞれ総理と副総理に任命され、道党責任書記出身者が多数副総理に起用されたことが注目される。経済再建に責任を負う内閣の責任の猛者と役割を高め、離れていった地方の民心をきちんと読み、反映させようとするためだった。同様に、経験豊富な元老を登用し、後継体制を補佐しようとする意図も潜んでいる。

 国防委員会と内閣に対する組織改編と人事を行った金正日は、2010年9月28日に突然、第3回党代表者会を開催した。そして予想を覆し、金正恩を公の場に登場させた。党代表者会では金正恩を党中央軍事委員会副委員長として任命し、今後の金正恩政権を率いる人脈で労働党の人事を行った。この時、事実上の金正恩政権が始まったと評価できる。2010年8月、金正日が金正恩後継者を同行させて中国を訪問し、中朝首脳会談を終えて帰国した直後のことだった。

 1970年代、金正日が後継者として登場した当時、党内で後継者として確定した後、3年間は党、政、軍に後継体制を確立し、それから4年過ぎてようやく第6回党大会で公式の場に登場した。これに比べ金正恩は、2008年に後継者内定、2年後に国民の前に立つことになった。2年で後継体制を確立したことになる。

 金正日は2008年8月に健康に異常を来して以降、金正恩への安定的な権力承継を準備することに多くの時間を割いた。金正日は当時、「私には時間がない」としばしば口にしていたという。党、政、軍に対する運営を後継者に任せたまま地方での現地指導に没頭していたのは、金正日が自分の運命を悟ったという意味だ。後継体制を速戦即決で終えた理由でもある。金日成死亡と後継者への権力承継を直接経験してみて、自ら首領制体制を樹立して運営してみた人間として、金正日は権力政治のレベルで行うべき次期権力構造を事前に準備しておいたということだ。

 2009~10年にわたって行われた党、政、軍に対する組織改編以降、金正日時代に跛行的に運営されていた党中央委員会全員会議、政治局会議、党中央軍事委員会が正常に稼働され始めた。実際に、北朝鮮は09年の党代表者会直後、党全員会議を開催し、11年6月には30年ぶりに政治局常務委員と党中央委員会の正委員、候補委員などがすべて出席した政治局拡大会議を開催した。12年11月と13年2月にも、政治局拡大会議が開かれたことが確認されている。また政治局会議と党中央軍事委員会会議も定期的に開かれているという。

 2013年1月には、6年ぶりに労働党の現場では最前線の組織である党細胞秘書大会が開催されてもいる。特に13年2月の政治局拡大会議→3月の党全員会議→4月の最高人民会議→内閣拡大全員会議の開催によって、「経済建設と核の武力建設の並進路線」を採択し、法制化・予算編成、実務対策など後続措置を用意して行く決定過程は、金正日時代には見られなかった現象だ。

 金正日時代に跛行的に行われていた党の運営が正常化し、集団的協議構造が復元された。もちろん、金正日時代にも国防委員会、党中央軍事委員会の決定や指示文件が出たという点で、この機関が形式的ではあっても運営されていた。

 2010年の第3回党代表者会、12年4月の第4回党代表者会で明らかになったように、金正恩体制の権力構造は集団指導体制ではない、金正恩中心の単一指導体制に帰結され、一部専門家の予想とは違い、権力分散を通じた特定人を前面に出し、摂政政治を行うとか後見人として浮上させることよりは、「集団協議」を経て組織的に最高指導者を補佐する形態となった表面化した。

 北朝鮮の集団主義的協議の伝統について、朝鮮半島問題の専門家であるロシア科学院のアレクサンダー・ボロンチョフ教授は「2つの要素の均衡が揺らいでいる時もあるが、指導者の唯一的地位と最高水準の政策決定過程での集団主義が結合することは北朝鮮の永らくの伝統だ。金日成さえ初期には労働党や政府内で唯一的な地位を占めたのではなく、金日成や金正日ともに最高指導者の地位にある時にも党中央委員会や国防委員会のような集団主義的政策決定構造をなくさなかった点を思い起こすべきだ」と指摘している。

 北朝鮮は1990年代に経済難と安保危機などで「非常態勢」に突入し、20数年ぶりに新たな後継者の登場とともに「正常体制」に転換しはじめた。金正恩を党第1書記に選出した2012年4月の第4回党代表者会は、北朝鮮が完全に金日成時代の党と国家運営システムに回帰したことを象徴している。党、政、軍の集団協議構造が復元され、党と国家機関の運営と機能が正常に稼働しているということは、それだけ金正恩時代の北朝鮮の体制安定が高まったことを意味する。

(2013年5月20日)


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